2b-1. コメントを書く1:「短距離の反省」とコメントのフォーマット
これまでのエントリ:「哲学入門読書会で話したこと」の目次
オリエンテーション3/3の「0. 開催日までにやること」 において提示した、開催日当日までに行っておくよう推奨している作業のリストを再掲します。
[A] PDFを加工する。
[B1] 予備作業ファイルをつくる。
量的構成を確認する。
趣旨・課題を抽出する(〜第二水準の要約を作成する)。
[B2] コメントを執筆する。
①目が止まった箇所で自分に生じた反応を言語化する。
②該当箇所を特定し引用する。
③引用箇所を敷衍する。
前回エントリまでに [A] と [B1] の解説が完了しました。このエントリからは数回かけて [B2]「コメントを執筆する」について解説してゆきます。
1. スピードを切り替えて読む
[A] と [B1] では、「読書会開催日当日までに三回読んでくる」という参加条件をクリアするために、「すばやく読む・ざっと読む」読み方についてお話しました。すばやくざっと読む(→[B1])なかでも、目や手がとまり、読むスピードが遅くなった箇所がいくつかあったはずです(そしてそこは黄色でハイライトしてあるはずです→[A])。ここからのセクション([B2]「コメントを書く」)では、それらの箇所を使い、その箇所をゆっくり読むことでコメントを付けるやり方について解説します。
ちなみに、ここで、目や手がとまり読むスピードが遅くなった場所で生じる反応の典型として想定しているのは、まずは「疑問・違和・異見」などですが、「同意・賛同・感嘆」などが生じた場合にもスピードは遅くなるかもしれません。いずれにせよそうした箇所はすべて、「コメントを書く」という課題のために利用することができるはずです。
またもしかすると、この「三回読んだ」時点でもまだ、目や手がとまった箇所がない人がいるかも知れません。その場合には、[B1] の成果物である「課題や宣言のリスト」を傍らに置きながら、
宣言されている課題群は、本文において実際に実行されているか。それぞれ文書のどこで実行されているか
それら課題実行箇所において、実際には何がどう行われているか
それら課題実行箇所において、各課題は首尾よく果たされているか
それら以外の箇所では何が行われており、課題実行箇所に対してどのような役割を果たしているか。
といった点に注意を限定しながらもう何度か再読してみてください。注意の働かせ方を限定すると、コメントできるポイントが出やすくなるかもしれません。ちなみにここで一つトゥルーイズムをご紹介しておきましょう:
上掲の4つのリストの中では、1の後半が「どこで」に相当し、他のリストよりも遥かに難易度は低いでしょう。なので、まず1だけに注意して読むのでもよいと思います。1に注目するだけでも、それぞれのセクションの──〈課題実行箇所/その他〉という──最も大きな構造的区画が把握できるはずですから。
2. 目・手が止まったときに起こること
さて。
読んでいるときに目・手が止まったところでは、こんなことが起きているはずです(図1)。一人で読んでいるときに疑問が生じたら(①)、そこには「次の活動」として探索活動が続くかもしれません。読書会の場でなら、自分の感想(①)を他人に伝えるという活動が続き、そこで議論が始まるかもしれません。
ともあれ、私たちは──特にどこからも文句のつきそうにない──この素朴な描像から出発することにしましょう。
ここには二つの重要なポイントがあります。まず、読んでいるときに何らかの反応①が生じた場合、私たちの注意は、その時には既に「次の活動」へと向かっているのが普通だ、という点です。そしてまた、これらの活動(②→③→①)の大部分はそもそも、おおむねオートマティックに(=明確な意識的制御なしに)生じ・推移するものだ、という点です。つまり、これらの活動(②→③→①)は、この二つの意味で、反省的意識が向きにくい部分であるわけです。
これに応じて、読書に関する多くの議論も、疑問や違和によって生じた緊張を解消する方向へと進む探索のプロセスや、「ここ面白い!」といった反応を言語化し・他人と共有することの楽しさといった方向へ進みがちです。そうした読書論を批判する必要は全くありませんが、しかし私たちは、それとは別の方向へと向かいましょう。
つまり、読むことの訓練を目標としている私たちは、これらの活動(②→③→①)の方こそを取り上げて、
それらを反省的に分節化して取り出すトレーニングメニューを組み、
それによってコメントを執筆するトレーニングをおこない、
参加者が持ち寄ったコメント群を、「そこに何が書かれているか」を検討するためのキッカケとして・共同で利用する
という方向へと進むことにしましょう。
3. 「短距離の反省」図式の概要とコメントのフォーマットのミニマム
②や③はしばしば意識されないまま・自動的進む過程なので、反省活動の出発点に取ることはできません。私たちが意識して出発点に取れるのは①──正確には「読むのがゆっくりになった」という現象・気付き──です。そして、①から出発すれば、まずは以下の三点について反省的に分節化してゆくことができるはずです:
①について: 「立ち止ったところで自分にどんな反応が生じたか」という質問に答える
②について: 「その反応は、文書のどこを見て生じたのか」という質問に答え、その部分を引用する。
③について: 「そこには何が書いてあるか・そこをどう理解したか」という質問に答える。
①はいわゆる「言語化」、②はいわゆる「参照箇所の明示」、③はいわゆる「敷衍=理解の確認=理解の提示」に相当します。この三つはどれも、読んでいるときに自分に何が生じているかに関する──異なる種類の──ごく小さな反省です。したがって、これらを総称して「短距離の反省」と呼ぶことにしましょう。
以下では、「コメントを書く」という表現でもって、この三つを揃えてセットで提示しようとする活動のことを指すことにします。したがって、読書会の準備期間中に「コメントを書く」という活動を進めるときには、以下のような表形式でメモを記すことを推奨します。
このフォーマットで準備するようお願いすると、読書会の参加者から、たとえば次のようなコメントが集まってきます(ここでは目下の対象文献である戸田山和久『思考の教室──じょうずに考えるレッスン』(NHK出版、二〇二〇年)第二章に対するMさんのコメントをお借りしました)。
指定のフォーマットに則っていないことに気づいたでしょうか。引用セル②に入っているのはMさんによる要約のようですし、敷衍セル③には感想が入っています(要約は③に、感想は①に移動していただく必要があります)。コメントの内容を見ると、反応セル①には疑問が入っていますが、「これが」というのがどこから出てきたのか分からないため、何を尋ねているのかちょっと分かりません。
なぜフォーマットに則っておらず、しかも一読して意味がわからないコメントを最初の例として見せるのか不思議に思ったかもしれません。しかし「このフォーマットで提出してください」と依頼して読書会の場に出てくるコメント群は、こうしたものであることがふつうなのです。つまり私たちには「フォーマットに従う」ことからしてまずは難しいのであって、そこからしてすでにトレーニングの必要があるわけです。
このフォーマットに従うには、引用や敷衍ができる必要がありますが、そもそもまず読書会参加者の多くにはそうした習慣がありません(私自身は、この連載で紹介している読書会をやってみるまで、そうした人たちが結構な割合でいることにあまり気づいていませんでした)。「文をそのまま書き写す」という習慣がないので、「引用せよ」と言われても言い換えてしまうのでしょうし、また「敷衍」とは何をするのか知らない人も少なからずいるのだろうと思います。そしてまた、敷衍を適切におこなえるためには、その手前でまず、
「実際に書いてある文章」と「その文章の敷衍」
「著者が述べていること」と「自分が考えたこと」
「文章を見れば想像なしに言えること」と「文章を読んで自分が想像したこと」
などの区別ができなければなりませんが、読書会参加者の多くにはそうした習慣もないのです。
別言すると、この「①②③の契機を揃えてコメントを書く」というフォーマット(でコメントを書くトレーニング)は、こうした区別・分節化をおこなうトレーニングへと指向した、例によってまったく何のヒネリもないベタな考案物なのです。区別すべきことが区別されていなければ、それが(少なくとも他の参加者からは)すぐに見て取れ、お互いに指摘し合うことができるところにこのフォーマットの利点があります。そして、これが本を書かれたとおりに読むトレーニングへ向けた重要な一歩となることもまた自明でしょう。
以下、Mさんのコメントを借りながら、この「短距離の反省」図式にしたがってコメントを準備する手順について(=実際のコメントの準備作業において何をすればよいのかについて)解説してゆきます。
3-1. 短距離の反省②: 文書のどこを読んでその反応が生じたのか
①②③のうち、もっともハードルが低いのは②なので、これから始めましょう。セルの②では、
「その反応は、文書のどこを見て生じたのか」という質問に答え、その部分を引用する
という作業をおこなうのでした。
多くの読書会──特に、アカデミックな訓練を受けたことのある人たちの集まり──でも、「発言時には、文献のどこについての発言なのか明示するように」と求められたことがあるでしょう。そう求められるのは、「参照箇所の明示」が、発言を文書に繋ぎ止めるためのもっとも単純なやり方であり、しかも形式的に簡単に述べることができるからでしょう。逆にいうと、多くの読書会では、単に形式的に表現できるという理由から、このルールだけに過剰に頼りすぎている、という疑いもあります。
Mさんのコメントでは、引用セル②に、引用ではないものが入っていました。また反応セル①の文の形式は疑問文になっていますが、「これが」が何を指すのかわからないため、質問の意味もわからなかったのでした。
そこでMさんに、それを明示的に書き入れるようリクエストしてみたところ、返ってきた答えがステージ2のセル②です。
ということで、「これが」が章のタイトルに含まれていた文言であったことが判明しました。最初Mさんのコメントを見たときに、私はこの点に思い至りませんでした。これに思い至らないのは注意力が足りないからだ、とは言えるでしょうが、しかし適切な引用を行うだけで、他人に注意力を強く要求しないコメントを書くことできたはずでした。
それだけではありません。Mさんは、自分がタイトルを踏まえてコメントしていることこそを伝えたくて、①に「論理的指向のいちばんシンプルな定義を定義づける章らしいが、」というフレーズを入れたのでしょうに、私は(そしてまた他の参加者も)その点にはさっぱり気が付かなかったわけですから、コストを割く場所が違っていたわけです。引用セル②に章のタイトルを入れておけば、反応セル①のその部分はむしろ要らなかったわけです。
ということで「これが」の出所はわかりましたが、Mさんが何を尋ねており、どうしてそういう疑問が生じたのかはまだわかりません。それがわかるように、さらにコメントを書き換えていっていただきましょう。
3-2. 短距離の反省①:その箇所についてどんな反応が生じたのか
次は①です。ここでは、
立ち止ったところで自分に生じた反応はどういうものか?
という質問に答えるのでした。
コメントを書く時には、つい「私がそこで目を止めたときに、私は本当には何を考えていたのだろうか」とか、「私が書いたこのコメント文は、そのときに私が考えたことを本当に表現できているだろうか」などと考えてしまいがちですが、そんな風に考えてしまうとコメントを書くハードルは著しく上がってしまいます。読書会への準備のためにコメントを残す目的は──あなたの真の思考や あなたの真実の姿を明らかにすることではなく──あくまで読書会の場で共同で読解を進めるための素材の確保にある、と考えましょう。
ここで重要なのは、まずは、あなたがその箇所で目を(手を)止めた、という事実の方です。目が止まったのですから、そこには何か語るべきことがあるのでしょう(検討の結果、「語るべきことはなかった」ということになる可能性はあるにしても)。「なぜ目を止めたのか」の理由を思い出せなかったら、「いま改めてこの箇所を読んでみての反応」を文章化すれば、それで用は足ります。そしてまた、すぐにきちんとした文章にすることができない場合には、まずは箇条書きのメモだけでも残して、他のセルを埋めてからまた戻ってきてください。
Mさんのコメントにはすでに①が書き込まれていますから──まだその疑問がどういうものなのかわかっていませんが──先に進みましょう。
3-3. 短距離の反省③:そこには何が書いてあるのか
最後は③です。ここでは
その場所に何が書いてあるのか・その場所をどう理解したのか
という質問に答えるのでした。ちなみに、この、「その場所に何が書いてあるのか」と「その場所をどう理解したのか」という疑問文は、同じことを別の表現で問うているのだと考えてください。「その場所をどう理解しましたか?」と質問をすると、その場所には書いていないこと(たとえば読者が想像したこと)を交えた回答を書いてしまう人がいるのですが、このセルではそうした回答は想定していません。このセルに書いてよいのは、その場所に書いてあることだけです。
Mさんの元のコメント(ステージ1)の敷衍セル③には、やはりMさんが思ったこと・考えたことが混ざってしまっていましたね。これは反応セル①に移動していただきましょう。また敷衍セル③に書くべきことが引用セル②に置かれていましたので、それを敷衍セル③に復活させるとコメント表はこう変わります(ステージ3)。
これを見ると、Mさんの疑問は、章のタイトルを踏まえたうえで章の中身を読み進めていったところ、両者にギャップを感じたために生じたものであるらしいことまではわかります。だとすれば、引用セルの内容が不足しているわけですね。まずはなにしろ、③の敷衍のもとになった箇所や、①の「できるだけ強い」の参照箇所の引用が欲しいところです。
ともかくも、これでいったんは三つのセルが埋まりました。次に、この状態から出発して、さらに各セルの内容を改善していく事を考えます。①②③のうちもっとも難しいのは③なので、これだけは次回エントリに回し、今回は②と①だけを取り上げます。
4. 「短距離の反省」再説:コメント改善へ向けた最初の一歩
4-1. 短距離の反省②: なぜわざわざ文章を引用するか
このコメントフォーマットを皆さんに紹介すると、非常にしばしば、まず真っ先に②に対して、「読書会では全員が同じ書籍を手元に持っているのだから、文章をわざわざ引用する必要はないはずだ。参照ページ・参照段落を明示するだけでよいのでは?」といった疑問をいただきます。たしかに、引用文は分量がかさむことが多いですし、参加者の多数のコメントを共有した場合に見通しが悪くもなりますので、そう尋ねたくなる気持ちもわかります(実際、多くの読書会ではこのようなことは要求されないでしょう)。しかしMさんのコメントを見たあとではどうでしょうか。
こうした疑問を投げかけてくる皆さんは、現在の人類の一般的な魂の水準が、「我々人類は、コメントに必要な箇所・分量を適切に選定する事ができない」というステージにあることを認識していないのだろうと私は思います。そしてまた、「自分には当然それができる」と考えてもいるのでしょう(しかし、それは本当ですか?)。でも、実際にこのメニューを携えて読書会を開催してみればすぐにわかることですが、そこでまず集まってくるのは、その多くが──いま実際にお見せしているような──フォーマットに則っていないものなのです。つまり、人類の現状は「必要はない」どころではないところにあるのですから、トレーニングのメニューもこの点を踏まえたものでなければなりません。「読む」訓練は、まず「見る」訓練から始まらないといけないのです。
したがって、「コメントを書く練習をする」という目的のためには(トレーニングの難易度を下げるために)、省略なしに引用文を書き写す必要があります。このフォーマットが狙っているのは、〈②引用 - ③敷衍 - ①コメント〉をセットで扱う習慣をつけることであり、それを助けるために、コメントのフォーマットを「一瞥で把握できる(~セットにしか見えない)」ものにしたいからです。別言すると、「引用箇所を見るために本に眼を移す」といった視線の大きな移動こそを不要にしたいわけです。
コメントのための引用は、多すぎても少なすぎてもいけません。この、「コメントに必要な箇所を必要な分量だけ引用する」ということも、訓練が必要なスキルです。そしてまた「どれだけ必要か」ということは、③敷衍セルと①コメントセルの内容と照らし合わせることによってしか決めることができません。②-③-①が一瞥で把握できる状態になっていたほうが、この調整のハードルが下がるのは自明でしょう。
Mさんの例では、ステージ3に至ってもまだ、その疑問は「見ればわかる」という状態にはなっていません。前の項で指摘したように、その理由の一つは、引用文が足りないからでしょう。「コメントに必要な引用文はすべて載せる」というルールを設けていないと、まずそのことに(本人も周りの人も)なかなか気付けません。このコメントでは、なにしろ敷衍セル③と反応セル①で複数の箇所が参照されているので、それらをすべて②に盛り込むようMさんにお願いしたところ返ってきたのがステージ4の②です。
コメントのための引用は、多すぎても少なすぎてもいけません。短すぎれば情報不足で何が言いたいのかわかりませんし、長過ぎたら 見通しが悪くなります。もっと長ければそもそも他の参加者が読む気を失います(そんなに長く引用文を必要とするコメントなら、それはそもそも複数に分割すべきものなのではないでしょうか)。「コメントに必要な箇所を必要な分量だけ引用する」ということもまた訓練が必要なスキルです。
「必要な箇所と分量」は反応セル①の内容によって決まるわけですが、目下私たちは読書会において他の参加者と共有するためのコメントを書こうとしているのですから、
この引用文②で、自分の言いたいこと①を他の読書会参加者に伝えることができるか。
このコメントを他の読書会参加者に最後まで読んでもらえるか。
という問いを判断のためのガイドとして使うことができます。場所・分量に迷ったときには特に、このことを想い出してください。
Mさんステージ4も、このままでは引用文が多すぎます。それに対応して実際、反応①の方も、一つのコメントに複数の内容が盛り込まれてしまっているように見えます。もっと刈り込めないかどうかさらに検討してみて欲しいところですが、次のセクションでその点について考えてみましょう。
ちなみに/そしてまた、「なぜ私はこの箇所で目・手を止めたのだろうか」と問いながら引用箇所を選定していると、たとえば生じた疑問がただの見間違い・見落としによるものだったことに気づいたりします(非常によくあることです)。これはこれで「文書をよく見る」こと(の必要性)のトリヴィアルな例になっていますね。こうした場合、この箇所を読書会の場に持っていく必要はないでしょうが、自分のために(=自分がやってしまった見間違い・見落としのコレクションとして)メモは残しておいたほうがよいでしょう。「見落とし・見間違いに自分で気づく」こともまた、重要なトレーニング課題の一つです。
4-2. 短距離の反省①:主導的な問いを読み手の反応について問う
一旦コメント文を書いてしまえば、次にはそれを自分自身でも検討できるようになります。次のステップでは、その文に対して、「そこで何が行われているのか」という主導的な問いを問うてみてください。
目下の例では「疑問を述べている」のが明らかなので、コメントの先頭にそれを書き込みます。
【疑問】「できるだけ強い」(9(03)) 自体がそもそも主観的感覚に思えるが、章の終わりがもはや「論理的思考の定義」ではなく「論理的観点から見てじょうずに考えること」(9) になっている。どれが「これ」なのだろうか。
コメントの内容によっては、何がしたいのか自分にもハッキリしない場合があります。ハッキリしない典型的な理由には、「やろうとしていることとコメントの表現の仕方がマッチしていない」と「一つのコメントで複数のことをしようとしてしまっている」の二つがあります。前者は、異論・反論を述べたいのに疑問文を使っている、などがその例ですが、この場合は、コメントの文章表現の方を自分がやろうとしていることにあわせて書き直してみてください。後者の場合は、1つのコメントで無理にあれこれ言おうとするのをやめて、複数のコメントに分割してください。
Mさんの反応①は1つのコメントであれこれ言おうとしすぎている例ですね。分割してみるとこうなります:
a. 【違和感の表明】「できるだけ強い」(9(03)) 自体がそもそも主観的感覚に思える。
b. 【違和感の表明】章の終わりがもはや論理的思考の定義(章タイトル)ではなく「論理的観点から見てじょうずに考えること」(9) になっている。
c. 【疑問】どれが「これ」(章タイトル)なのだろうか。
ちなみに、ここでは──私の方で──疑問文で書かれているものは【疑問】を、それ以外のものには【違和感の表明】を付しましたが、後者は、「だからなに?」に相当する部分を書き手が自分では明確に述べることなく読み手に(いまの場合は他の参加者に)委ねてしまっている文章形式であり、そのぶん言いたいことの表明としては曖昧になっています。
ここで、a-b-c の分割に基づいて、私からMさんに以下のような質問・リクエストをしてみました:
a について: 同じことを「主観的」という語を使わずに述べ直してみてください。
c について: この疑問が浮かんだときにMさんが使った前提を教えて下さい。
返答は以下のとおり:
a について: 定義とは数学の証明で使われるような誰もが納得するものではないのか。「できるだけ強い」は曖昧すぎるのではないか。
b について: 「これが定義だ」というタイトルを見て、定義を一つ教えてくれるのだろうと予想した。
この返答を盛り込みつつ、私の方でコメントを書き換え、かつ、三つのコメントそれぞれに必要な引用文をピックアップしてみたのがステージ5a-cです。
書き換えの際に、コメント文にあった「そもそも」や「もはや」といった言葉を取り除いていますが、これらは3つのコメントの関連性を表すものでもあるので、その点について考えるときには再び考慮にいれなければなりません。またb が問題にしているのは、章タイトルと章の内容のギャップであり、それは章タイトルと最終節のタイトルのギャップとして取り出せるものなので、それを明示的に盛り込みました。
重要なのは、ここで「或る人のコメントを他の人が協力して書き換える」という事態が起きていることです。これが可能なのは──「その人が本当に考えていることは何か」という問いではなく──、「ある反応が生じるためにはどのような条件が必要か」という問いを立てているからです。そして、こちらがさらに重要なことですが、我々は、他人が書いたコメントに対してこうした書き換え作業(=明確化作業)をおこなえるのですから、おなじことは自分が書いたコメントに対してもできるはずです。ともかくも、Mさんのコメントの内容はこれでかなり明確になりました。
コメントを書き直したら、もう一度三つのセルをセットで見てください。読書会の場へのコメントの提供は、①②③を揃えて他の参加者を説得する・納得を取り付けるという活動です。記したコメントは、「②③の記載内容を見れば、確かに①のような反応が生じておかしくないな」と他の読書会参加者にも納得してもらえるような内容になっているでしょうか。そうなっていないなら、そうなるように、①や②を書き直す必要があります。また、以上の見直しをおこなっても自分がやろうとしていることがハッキリしない場合は一旦諦めて先に進み、他のセルを書き直してからまた①に帰ってきてください。
次のエントリでは、「短距離の反省③」の改善についてお話します。
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