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グループワーク大好きおじさん、ふたたび

きのう、日曜日。
9時から精神保健福祉士のスクーリング。これで8分の4回目です。

ようやく折り返し地点だよ!やったね、あと半分だね、ね、ね、と自分を鼓舞しつつ、ラジオ「東京ポッド許可局」を聴きながら丸ノ内線にとことこ揺られる。
周囲は夏休みのおでかけに向かうと思われるファミリーや、外国からの旅行客の皆さんだらけ。楽しそう。

教室に入り、着席してすぐに、今日担当の講師の先生が準備をしに教室に入ってきた。
(スクーリングは毎回先生が変わるのです)

今日はどんな先生かな~と顔を上げた瞬間、うっ、と時が止まる。
「グループワーク大好き早口おじさん」じゃん!

ああ……。
今日も丸一日、グループワークをやらされることになるのか、と考えただけでまだなにもしてないのにどえらい疲労感がよみがえってくる。

帰りたい。(帰れない。ここは無言坂)

果たして昨日も、9時から17時まで断続的にグループワークをすることとなりました。
とっぷりと疲れた。たぶん、最後の30分くらいは白目を向いて微動だにせずにいたと思う。あまりに疲れて脳が動きを止めていた。

途中、隣の席の方が、この先生に当たるのが初めてだったとのことで「まさかこんなことやらされるとは思ってもなかったです…」と困惑の表情をしていた。ですよね。わたしもスクーリングでここまでハードにグループワークやるとは思ってなかったです。

しかも朝一発目のグループワークというか模擬面接が、「相模原事件の植松死刑囚とその支援者役になりきって、「優生思想を持つことをどう思うか」をテーマにペアで模擬面談をする」というめちゃ重たい、めっちゃめちゃ重たいワークであった。これにはたまげた。
さすがに朝一でやるテーマと違うでしょう…!

もうちょっと軽めのウォーミングアップから始めてほしかった。

仕方がないから隣の方と交代で植松死刑囚役を演じたわけですが、ペアを組んだ方から「ののっつさん、植松さん役うまいですね!」と褒められたのもなんだか喜んでいいんだか悪いんだが、微妙な気持ちである。

精神保健福祉士は障害を持つ方々の支援に携わるので、差別や、時には優生思想といったことにも触れることがあるだろうし、その差別をされる側の方の支援にも、する側の方(に精神疾患があった場合)の支援にも携わる可能性がある。

しかしなあ。朝からやるには重かったなあ。

「生産性がない人に生きる資格はないと思います」
「自分では何もできない、家族にも見捨てられた人に生きてる意味がないですよ」
「意思疎通のできない障害者は安楽死させた方がいい」

などの言葉を(植松役になりきって)発しつつ、かたや、「生きていることの意味は他人が決められることではないんじゃないか」ということをずっと心の中では思っていた。

「生きる意味」ってなんだ。
それは、確定死刑囚であるつーさんとの交流のなかでも問いかけられたことのある問いなのだが、いまだによく分からない。
でもそれは、ともあれ他人が勝手に決めるものであってらならないってことだけは、思うのだ。

・・・

帰宅後、娘のコロナで延期になっていた、夫の誕生日祝いの夕餉の支度に取りかかる。
といっても、本人の希望で「ハンバーグカレー」なので簡単である。

娘がハンバーグ、わたしがカレーをつくり、スクーリングの帰りに買ってきたケーキでお祝いした。

夫は今年で49歳になる。
え、来年あなた50なの?!とわたしが驚いた。
出会った頃の夫はたしか28歳だった。なんだかあっという間だな。
(ちなみにわたしは夫の4つ歳下です)

もともと、20代の頃から若白髪で丸眼鏡がずり落ちていて、見た目がおじいさんぽい人だったので、見た感じはさほど変化していないように感じる。むしろ見た目に年齢が追いついてきたような、まだ追いつけていないような。

40を過ぎてから内面の成長?熟成?が感じられず、体感として心は35歳くらいで止まっている気がする、とケーキを食べながら夫が言っていたが、それはわたしもよく分かる。
気分が35歳くらいで止まっているんだよなぁ。
50歳、60歳と重ねるうちにまた変わってゆくのだろうか。それとも、35のままなんだろうか。

・・・

あしたは娘と、歌舞伎座の八月納涼歌舞伎へ。
久しぶりの歌舞伎だ。うれしい。
銀座の三越で幕間に食べるお弁当を買っていこう。その前に婦人科へ行って採血。

おそらく今週もバタバタと慌ただしい。今年は職場のお盆休みというものも存在しないので(行政関係なので)、なんだかあっという間に8月がすぎていきそうだ。
でも、あっという間でいい。8月は、あっという間でいいんだ。