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懐かしみあう秋

11月がきた。

「なった」っていうより「きた」。

もう来ちゃった。こんなに暑いのに。11月ってもうコートとか着はじめる感じですよね?
と、やんわりと思う。

「来るな」と言ってるんじゃない。らしくあってほしい。わたしは11月の陽気が一年でもっとも好きだから。

日本シリーズも終わってしまってね。
タイガースさん優勝おめでとうございます。

わたしの家には青柳さんのアクスタがある。いつも豆苗(2度目の再生中)のそばに住んでいる。

お疲れさまでした

しかしわたしはタイガースの優勝の瞬間を見ていないのである。日本シリーズは毎試合きちんと見ていたにも関わらずだ。
なぜなら、その日にNHKEテレでやっていた「日曜美術館」で、屋久島のすごい巨木を前に「自分はなんて弱いんだ」と涙をはらはらと流しながらえらい勢いで鉛筆をはしらせてデッサンを続ける画家に目を奪われてしまったからだ。

本当になんだか、目を奪われる光景だったんですよね。
NHKプラスで見逃し配信をやってると思うので、ご興味ある方はぜひ。

娘と一緒にぼーっと見ていたんだけど、「え……なんかこの人すごくない?」「……すごいね」「とんでもなく繊細だよ……っていうか感性がほとばしっている……」「うん……泣いてるね……」などと、ぼそぼそと言いながら見守るしかなかった。

わたしには美術を理解するスキル(感じる心?もしくは興味?)がなくて、音楽はとても好きで自ら聴きに行ったり弾いたりするけど、絵画を見に美術館へ行ったり自分で描いてみようと思うことはほとんどない。
かといって、「綺麗だな」「美しいな」「胸打たれるな」と思う心はあります。でも、抽象画や現代アートとかになるともうお手上げわからん状態です。

……この方が屋久島の巨木を前にガシガシと鉛筆を(1秒たりとも止まることなく)動かし続けていた、その1枚のデッサンは、わたしには「まっ黒いなにか」にしか見えなかったのだが、そこからパッとシーンが移動して、完成した作品がババーンと登場して度肝を抜かれた。

ぜんぜん違うやつになってる。

めちゃくちゃ巨大でスペクタクルな美しい日本画になっていた。
つまりあの、泣きながらガシガシ描いてた黒いやつは下描きとかそんなんではなくて、この方が作品を描くためのイマジネーション(って言うのかも分からない。音楽で言えば曲想を得る、みたいな……)を獲得するための、その巨木を実感するための行為であったわけだ。
うーん、すごい。芸術家って。

絵は「不死鳥」というタイトルだそうです。
武蔵野美術大学美術でいま見られるそうなので、ぜひ生で見てみたいなぁと思っています。

そんなわけで、日曜美術館からの、檀ふみ&池辺晋一郎のN響アワーをそのままはしごして見しまい、日本シリーズのことをすっかり忘れた。
ともあれ、優勝おめでとうございます。
わたしはいまの阪神とオリックスのことはそこまで詳しくなかったけど、今回のシリーズを見ていて、阪神の石井さんというピッチャーと、オリックスの宗さんはすごくファンになった。これから試合を見る楽しみが増えて嬉しい。
好きな選手が増えていくのは嬉しいことだ。

・・・

先週末、文化の日には娘の文化祭があって、彼女は部活をふたつ掛け持ちしている(音楽のと、茶道と)ので発表を見に行ってきた。
茶道部では実際にお点前をしてお客さまに無料でお茶とお菓子をふるまうのだが、なんと1000人分のお茶菓子を用意したというので驚いた。
そんなに!?と思っていたが、実際、行ってみたら長蛇の列であった。
都内にある私立の中高一貫女子校なので、受験を考えている小学生のご家族などもたくさんいらっしゃるのである。

で、お点前をする部員(「亭主」役と言います)の家族だけはその列に並ばず、いわばディズニーランドのファストパスみたいな感じで、そのお茶席の「正客(しょうきゃく)」にならせてもらえる。一番客ということで、間近でお点前を見させてもらえるのでとてもありがたい。

娘が亭主となってお茶を点てるさまを間近で見て、嬉しくも、なんだか緊張してしまった。
いま履いてるタイツに穴空いてなかったかなとか、足しびれないかなとか、背筋をちゃんと伸ばさなきゃとか、お茶席が久しぶりだったのであれこれ気を使う。

わたしは以前、高田馬場にある教室で裏千家の茶道を習っていた時期があった。
先生はいま鎌倉へ越され、お年を召されて教室もたたまれ、何年もお会いできていない。仏様のようなお優しい先生で、わたしはお茶を習いに行くというより、その先生に会いたくて行っていた。先生は若くして配偶者を亡くされ、ずいぶん大変な思いもされたと聞くが、いつでも暖かく、優しく、迎えてくださった。
「愛」そのものという佇まいでいつも迎えてくださった。

あの先生の暖かなお茶席の記憶があったから、中学生になった娘に「茶道部にはいってみたら?」と勧めたのだった。
緊張しつつも静かな佇まいでお茶を点てる娘を見て、先生のことを思い出す。またお会いしたいな。
先生は毎年クリスマスになると、わたしの娘の名前宛で鳩サブレを贈ってきてくださる。娘が生まれてから、14年間ずっとだ。
娘にとっても先生は、間接的にお茶のお師匠なのかもしれない。
そんなこんなで娘が点てたお茶は、とても暖かく、おいしかった。

・・・

翌日土曜は、遠方から相談者がいらっしゃるとのことで午後から出勤。
新幹線で何時間もかけてご家族でこちらまで出てきてくれた。

ご本人と、これまでの人生のことをお話しした。
学校や社会のなかでつらい思いをして、そして今も苦しんで、さまざま試してみたけれどもうどん詰まり。それでもなんとか打開したいという思いを持ってやってきてくれたことが伝わる。話を聞きながら「つらかったですね」と何度も言った。

わたしの仕事はニート・ひきこもりの若者の就労支援であるが、その方がなぜ無業なのか、なぜひきこもるしかなかったのか、その理由や背景はさまざまである。
だから本当は、「ひきこもり」という言葉は使いたくない。「ひきこもり」という名前の人なんてひとりもいないからだ。カテゴリ分けすることで、なんだか他人事にもなってしまう気がする。その人も、わたしも、同じなのだという思いがいつもある。

あるのは、その方のお名前と、その方が歩んできた唯一無二の人生。みんなそれぞれに生きてきている。そのことを尊重したい。

わたしが相談者の方とお話するとき、よくお尋ねすることがある。

「半年後、どんな暮らしをして、どんな自分になっていたらいいなと思いますか?なれるなれないは考えず、夢や理想でいいので教えてください」

今回の青年にもそう尋ねてみた。
その方は、しばらくじっと考えてから、
「苦しみのない自分になりたいです」
と、おっしゃった。
そして、「もう、ひとりは嫌です」と。

わたしは、その気持ちを知っているような気がする。
誰だって、苦しみのない自分になりたいと思いながら生きているのだ。

わたしはその方ではないし、その方もわたしではないけれど、その苦しみにはなにか懐かしさがある。

人は一緒にはなれないけど、懐かしみあうことならきっとできるんじゃないかと、そんなふうに思っている。