大学の同期の結婚式で余興をすることになった。久々に同期の男4人で集まって話し合った結果、何かしらのダンスをすることに決まった。僕以外の3人は、大学のサークル活動でダンスをやっていたので、そういうのは得意らしい。僕は、高校の文化祭で、当時流行っていたドラマの主題歌に合わせてダンスをするという出し物に、仕方なく参加したのが最後のダンスだった。もう10年以上は踊っていない。

人前で踊るなんて、そんな恥ずかしいことできない、と思ってしまう。体育の恥ずかしさに似ている。できないことを無理やり人前で見られながら、マット運動をしたり、ボールを投げたりする時の恥ずかしさ。今回は、ずっと付き合いのある大学の同期の結婚式だから、踊ることはやぶさかじゃないんだ、と強く自分に念じながら、ダンスに参加しようと決意していた。実際、見知った友達とするダンスと関係性もないような人もたくさん含まれている体育の授業では、意味合いは結構ちがう。そんな気がする。ちょっと心配だなくらいで収めきれるようなことの気がする。


土曜の夜、4人でまた集まって、ダンスの振り付けを決めることになっていた。Mが高田馬場で貸しスタジオというのかそういう部屋を4時間取ってくれた。僕は、その日は一日家にいた。家でどこに出すでもない文章を書いて、眠くなったら昼寝して、と一日だらだら過ごしていた。貸しスタジオのある高田馬場に向かうため、電車に乗ろうと家を出たら、雷が鳴り、大雨が降りだした。最近は毎日のように夕立が来る。さっきまで明るかった空のほとんどが、今は雲で覆われていて、ところどころ雲のつなぎ目のような隙間から陽が入ってくるだけだった。電車が止まってしまうかもしれないと心配になったが、電車は時刻表通りに来て、時刻表通り池袋に着いた。僕はそのまま時間に遅れることなく高田馬場まで着いた。貸しスタジオには、僕が一番最初に着いた。集合時間20分前、さすがにまだ誰も来ない。中に入るには4桁の数字を入れて錠を開けなければいけないので、Mが来るのを待つ。多分、彼が把握しているだろうから。何の集まりにも毎回、最初に着いてしまう。そのことを何となく恥ずかしいことのように感じてしまう。

貸しスタジオは、古いマンションの12階にあった。最上階だった。エントランスを入り、エレベーターで12階まで上がると、スタジオの入っている部屋はすぐ右手に見えた。建物はコの字型で、コで囲われた内側に中庭のようなスペースがあった。人の通り道に合わせて削れた芝生が見える。住人らしき女の人が2人、隅で立ち話をしていた。会社も随分たくさん入っているので、ここで働いているのかもしれない。柵を掴んで、上から中庭をのぞくと、足が震えた。思いのほか高いし、柵も心もとない。ぐっと一押ししたら壊れてしまいそうだった。

中庭を見ていたら、そこに大きな黒い穴がひとつ空いた。突然に。中庭を覆いつくすくらいに。のっぺりとしていて、奥行きがのある感じはしない。ただ中庭に黒い円形が浮かび上がっただけのように見えるが、それを僕はたしかに穴だと認識していた。

体が急に軽くなった。ふわっとその場に浮かんで、次の瞬間には、僕の体は柵を越えていた。紐で引っ張られているような気がした。僕は背中から中庭に向かって落ちていき、地面に打ちつけられた。地面はやっぱり真っ黒だった。僕は大きく一度弾んで、反転して、うつ伏せで地面に突っ伏した。口の中に砂が入っている。下唇が砂で汚れた。体中に痛みを感じながら、僕は走馬灯を経験する。幼稚園の頃の記憶からついさっきの記憶まで、一瞬で頭の中を通過していく。走馬灯は、人間の記憶に対する弁のようなものの機能が弱くなることで起きる現象なのではないかと聞いたことがある。大学の授業で聞いたような気がする。本当なんだろうか。聞き間違えかもしれない。何となくそう聞いたような記憶が残っているが、自信はない。

僕は、穴に飲み込まれていった。体が徐々に地面に潜っていくみたいに、少しずつ下降していく。周りが暗くなっていく。遠くからは救急車の音が聞こえていた。僕は、穴が僕を中庭に落として、捕食しているんだと思った。僕は穴の餌なんだ。狡猾で意地の悪い穴。きっと僕が上から中庭を見たとき、穴も僕のことを見ていたんだ、人が歩いて削れた芝生の下から。穴は、人を上から地面に引きずり落として、弱ったところを食べるんだ。この穴は、僕を食べているんだ。穴は、僕を腹に流し込みながら、何か小さく低いうめき声をあげていた。僕は、その声が、父が夜中にコーヒーを入れている時に出す声にそっくりだと思った。

僕が中庭を見ていると、Mがエレベーターから降りてきた。集合時間ちょうどだった。Mは、「うわ、怖っ」と中庭というかコの字の空間というかを指さした。「なんか危なくね」
「ね、やっばいよね。落ちたら死ぬよ」と僕は返した。

夕立ちの話をしながらMが数字4桁の錠を開けて、僕たちは部屋の中に入った。Mによると、ここは20平米くらいのスペースらしく、それは僕の住んでいる部屋よりも5平米広かったので、Mの結構狭いよという声をよそに、僕はあー結構広いじゃんと思いながら靴を脱いでいた。入って左側の壁一面が鏡張りになっていた。Wi-Fiもあるし、スピーカーもある。たしかにダンスの練習ができるよう最低限の設備は整えられていた。僕はすぐに壁に貼りつけてあったパスワードの紙を見ながら、パソコンとスマホをWi-Fiにつないだ。月末でスマホの速度制限がかかっていたので助かった。事前に参考用の動画がラインで共有されていたが、Wi-Fiがなければ開けないところだった。

少し遅れてやってきたもう一人の同期の靴下に、穴が空いていた。ボーダーのポロシャツに、ベージュのチノパンを履いた彼の靴下の、親指付け根あたりに直径5ミリくらいの丸い穴が空いていた。足の裏や爪と接触するあたりならわかるが、足の甲側の指の付け根に穴は空くんだろうか。しかし、穴はたしかに空いていた。穴から皮膚が見えている。Mと靴下に穴の空いた彼は、YouTubeに上がっているダンス動画を参考に、振り付けを簡単にしたりアレンジしたりと作業を始めた。

僕は上の空だった。穴が空いている。指の付け根のあたりに。あり得ることではあるか。でも、自分の経験からはあんなところに穴が空いているのは見たことがない。僕の靴下はたいてい、裏側の靴や床と接触するあたりに穴が空く。ちょうど彼の靴下に空いた穴の真裏が、穴の空きやすい場所なんじゃないだろうか。一般的にも。もしかしたら何か引っかかったのかもしれない。何か、針のような鋭いものに。だとしてもあんなところをひっかけることがあるんだろうか。どうどう巡りで思考は全く進まない。僕が穴について考えている間も他の二人は振り付けを考えていた。自分たちの体を使って、自然な動きになっているか試しながら振り付けを決めていく。頼もしい。部屋が狭いせいなのか、冷房がよく効いていた。僕はただ二人の話を聞きながら、うなずいていた。ただ頭を上下させて、同意の合図を送りながら、靴下の穴のことを考えていた。やはりあんな場所に穴が空くとは思えない。


振り付けはいつの間にかできあがっていて、いつの間にか、遅れて4人目の同期が来ていた。4人で最初から通しで振り付けを確認して、練習用に動画を撮った。ラインで共有された動画を、僕はすぐにダウンロードして、スマホに保存した。もうすぐ夜の10時になる。そろそろスタジオを出なければいけない。あとは各自で練習して、当日、最終確認をするということになった。貸しスタジオの部屋から出ると、遅れて来た二人が、正面に見えるコの字型の空間を見て、「うわ、怖っ、あぶなっ」と口をそろえて言っていたので、僕は「ねー、めっちゃ怖いよね。落ちたら死ぬよ」と返した。

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