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のの花だより7月号


「汗の内攻」は万病のもと


今年は梅雨の始まりが遅かったように感じますが、皆さん汗はしっかりかけていますか?5月6月と、きちんと汗をかける身体になっておくことの重要性をお伝えしてきました。


発汗は体内の余分な塩分を排出して緊張を緩める作用とともに、おしっこでも出せない毒素も排出しているそうです。食事や薬などの影響で毒素の溜まっている時や、発熱時にかく汗は、ベタベタとして臭く、毒素が抜けるとサラッとした心地よい汗に変わります。


上手く発汗が出来ないと、毒素を排出する腎臓の負担が重くなるというのは、そのような仕組みです。



このことは、私は整体の知識としては知っていたのですが、自分の身体で実感を伴ったのは今年が初めてでした。


宍粟市に移住して、家が古く足を冷やしている影響か、一年くらい前から随分トイレが近くなっていたんです。それが6月くらいから草刈りや畝立てでよく汗をかくようになると、ピタリと治りました。発汗が腎臓(泌尿器)を助けていることを身をもって理解できました。



汗はこのように、私たちの身体を適切な状態に保つために、非常に重要な役割を果たしています。しかし現代の生活環境では、この汗(特に首の後ろの汗)を冷房の風などで再び体内に引っ込めてしまうことが多々あります。言わば一度吐き出した唾をもう一度飲み込むようなものですからゾッとしますね。


かいた汗を体内に引っ込めてしまうことを「汗の内攻」と言い、現代は夏の汗の内攻による不調を一年中引きずっている方も多いです。特に酷暑のビル街と強く冷房の効いた電車内を出入りするようなお仕事は辛いですよね。


私自身、都会に暮らした十年余りですっかり夏の冷房にやられて(原因は冷房だけでなく不養生の極みの生活でした)腎がボロボロに。7、8年前までは極度の冷え性でした。当時はお風呂上がりなど、汗がダラダラといつまでも止まらず、余計に内攻しやすかったんです。


汗が内攻すると、子どものように排泄能力の高い上等の身体なら下痢として出します。もっと鈍い身体になってくると、神経痛やリウマチ、意外ですが視力の低下も引き起こします。


そうならないためにも、かいた汗は扇風機やクーラーで乾かすのではなく、しっかり拭き取ること。寝巻は襟のあるものが良いです。うっかり内攻した場合は、運動や熱いお風呂などでもう一度出し切ってしまえれば大丈夫です。



子どもはよく汗疹を作りますが、これも甘いもの、油っこいものを食べ過ぎて溜まっていた毒素の排出ですから、抑える必要はありません。しっかり掻きむしって、熱めのお湯で洗っておけば良いんです。


アトピーなどを心配して冷房をフル稼働、汗をかかせないようにする方がいますが、整体の考えでは出せるものは出し惜しみなく。汗が出ないようにしたり、せっかく出ている湿疹を薬で抑え込んだら、その毒素は体内に残り、別の症状という出口を探さなくてはなりません。


問題は先送りするほど大きくなります。皮膚に出るというのは一番症状が浅く軽い状態ですから、しっかり出させて、ついでに「お菓子やアイスを食べ過ぎたら身体の中に溜まらないようにここに出てくれてるんだよ」と体験と一緒に知識を伝えておく。あとは本人次第です。


怪我と病氣と集注欲求


6月の終わり頃のこと、息子が「何か息しにくいから背中見て」と言ってきました。雨が降る前の晩で蒸し暑く、ははぁ、と思って胸椎5番と腰の呼吸活点に愉氣をすると、すぐに元氣になって、ぴょんぴょん飛び跳ね出しました。


そこで「息がしにくいの氣づいてすごいねー。そう言えば、最近お風呂で水浴びばかりしてるでしょう。ちゃんとあったかいお湯に入って、汗をかいたら、もう息がしにくくならないよ」と教えると「明日からちゃんと温まる!」と言って、本当にそれ以来、ちゃんと湯船に浸かるようになりました。


愉氣もえらくよく効いたし、なんとまあ聞き分けの良いこと!と驚きました。整体では「まず氣を通してから話をするとよく通じる」と言いますが、本当にその通りで、愉氣をしたあとで伝えたから受け入れられたのでしょう。反対に、氣が通っていない所にいきなり言ったことは、それがどんなに正しくて、いくら口うるさく言っても全く通らないのです。



そしてその時ふと氣づいたのが、何となく彼が最近、以前よりご機嫌が良く、素直に優しくなったなぁということ。思い至る理由は、彼がひと月前に自転車で大怪我をした時に、数日間、かなり集注して愉氣をしたことです。おそらくその時に、彼の中で何かが満たされて、氣が通りやすくなったのではないか、と思いました。


意識の集注欲求の現れとして、怪我や病氣が引き起こされることは、実は非常に多いのです。
おねしょや意地悪も、物を壊すのもそうです。これは子どもに限ったことではなく
誰もが持っているものです。


家族に対する不満があって、それを口に出せない代わりに、あちこちが痛いと言ったり、検査の数値をふれまわったりしている大人は沢山います。


それは「我ここにあり」という注目を集めたい心の現れで、そんなことをするより他には構ってもらう方法が分からないのです。

よく交通事故のムチウチ症状が長引くというのも、潜在意識には被害者であることで大切に扱われたいという欲求があり、病氣が治りかけたらまた悪化する未練症状にも、病人という身分と特権を手放したくない欲求が潜んでいます。


ですから手当てをする人は、相手の内にそのような怪我人でありたい病人でありたい心を育てないようにすることが心得です。


私も子どもたちがインフルエンザなどにかかっている時には「悪いものをしっかり出せて、敏感な良い身体だね、強いね」と、その子の力を褒めるとともに、いやに訴えが強いなと感じたら「病氣にはなっても良いけど病人にはならないように。私は病人の世話はしません」と突き放します。


子どもに対しても親に対しても、ただ親切にすればするほど良いというものではなく、安心して独立してもらうことが肝要です。またこちらの親切の中に自分を親切に見せたい、認められたい心などが混じると、それは相手の潜在意識下に反発と更にエスカレートした要求を生じさせます。


相手にしっかりと氣をかけてあげるとともに、一方では寄りかかる心を育てない塩梅を上手く見極めないと、後々までこじれます。



また逆の立場なら、わざわざ病氣になって注目を集めるなどというのはつまらないし、ましてやボケてからやっと、それまで我慢してきたものを解放して家族に意趣返しをするようなことは避けたいものです。


自分が嫌われたくない保身で勝手に我慢しておいて、後になってから「私はこんなに可哀想なのだから優遇しろ」などと匂わせても、周りは迷惑に感じるばかりで求めるように愛してはくれません。


そんなことで存在を主張せずとも、はじめから自分のやりたいことをサッサとやって、やりたくないことはスパッとやめて、お互いの自由を快く尊重し合って生ていれば、周りに対して不満も溜めず、結果みんなが円満に暮らせるのではないでしょうか。

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