見出し画像

役者のわたし

こんにちは。中村野々花です☺︎
前回の記事で役者のルーツ"表現者のわたし"について綴りました。
そして中村野々花として綴る最後の記事は
"役者のわたし"についてまとめようと思います。

役者中村野々花として立った最後の舞台の話です。


まずは劇場に足を運んでくださった方々や舞台づくりに関わってくださった皆様に感謝を伝えさせてください。本当にありがとうございました。
最後の役者挨拶でもお伝えしましたが、
改めまして

役者中村野々花が中村穂波役を演じるにあたって正直しんどい場面もたくさんありましたが、
頼れる座組、
客演としてお世話になったTEAM909さん、
そして観にきてくださった皆さんのおかげで無事に最後まで舞台に立つことができました。
本当にありがとうございました。

舞台『名探偵はご機嫌ナナメ』役者挨拶より

お芝居の道に進むと決めた、高校の進路選択
前回の記事にも綴ったように高校の進路選択では高校までの合唱団のミュージカルキャストと
高校演劇での本番1ヶ月前の代役での初舞台の経験から役者としてお芝居の道を志すことにしました。お芝居を長く続けるためにお芝居を仕事にしたいと考えたのです。

ただしこの時はかなり逃げの選択をとりながら役者になろうとしていて、大学と並行して声優養成所に通うと決めました。
あまりに役者経験がないこと、
ミュージカルキャストに落ち続けていたこと、
身長の低さや容姿と向いているであろう役とのギャップを不利に感じたこと、
合唱団を長期でやってきたからこそ声ならどうにか武器にできるのではないかと思ったことなど…
わたしの中の良いも悪いも全て含めて、役者の中でも声のお芝居なら闘えるのではないかと考えた結果の選択でした。
「できることなら舞台に立ちたかったけど、きっとわたしは舞台では闘えない」
やってもいないのに逃げながら選んだお芝居の道でした。
わたしは今でも時々感じることがあって、
どうしてわたしは中途半端に逃げてしまう癖があるんだろうと。
でも小心者のわたしがそれでも選びたかったお芝居の道と自信のなさ中でも掴みたかった役者という選択肢だったんだと思います。

未知の世界に足を踏み入れた、声優養成所時代
大学進学とともに上京して学業と並行して声優養成所に通いました。まずは養成所費用を貯めるために夜勤でバイトをして、貯まったらすぐに履歴書を送って当時一番所属したいと考えていた事務所直属の養成所に入って。
思えば学業・養成所・バイトとなかなかハードな大学生活を送っていました。バイトを変えて調整も図ってもなお肉体的にしんどいこともありましたが、それでもすきなことをやっているという充実感のおかげで乗り越えていけました。

声優養成所とはいえ、1年目は媒体問わずお芝居全てに通じる芝居の基礎を学びました。
役者経験のなさや合唱団でのミュージカルキャストに落ち続けたことによるお芝居への自信のなさを克復するために。
この時の一年はわたしにとって役者の基礎をつくった場所で基礎科の講師の方には本当に感謝しています。
そして必死こいて講師の方からのご指摘やお言葉を一言一句逃さないようにノートをとり、
養成所の同期のお芝居を分析して自分に生かすためにノートに書き殴り、
時間をかければ際限ない予習・復習や課題を必要以上にノートに補足事項も含めて書きまくり、
大量にお芝居ノートが増えていきました。
自分で言うのもお恥ずかしいですが同期の中で誰よりもノートをとっていた自信はあります。
「何をそんなに書くことがあるの?」とよく訊かれましたが、
「書こうと思えばいくらでも書くことはあるよ」とわたしなりに答えていました。
きっとノートの積み重ねが自分の努力の証かなと、目に見えないはずの努力がカタチを成しているのかなとわずかに自信を重ねることもできました。

そのおかげもあってか本科に進級できた2年目。いよいよ声優らしくマイク前でのお芝居、つまりお芝居の中でも媒体毎の専門性を高めるような新たな一年が始まりました。
本科には基礎科上がり組と本科オーディション組がいて、かなりふるいにかけられたメンバーが新たな同期でした。実力や経験値は基礎科と段違いで講師の方も現場で活躍されている方とあって、専門性をより強く感じました。
「競争世界で芝居をしてる」というピリつきをいつも肌で感じていました。

ただお芝居を仕事にしようということ、
つまりここでいう芝居におけるプロになるということは小心者のかつ自信のなさをもつわたしには向いていない世界でした。
「努力しているのはわかるんだけど、もっとキラっと光るセンスがほしい」
「与えられた役をコツコツ果たしてくれるけど、なかなかばちっとハマるものが見つからない」
役者として言われている指摘を人としての欠点を言われているように感じてしまって。
でもどうにかしがみつきながらノートをとり続ける努力のカタチは変えぬまま努力は続け、
コロナ禍で養成所自体休講になることもありながらそれでもひたすらコツコツと頑張ってきましたが、事務所所属オーディションで不合格となり養成所を卒業しました。
オーディションでも緊張で頭真っ白になりながらもなんとか走り切ったのですが、最後に本科講師の方からのお言葉にはやっぱりわたしにはプロの世界で役者になることは向いていないという現実を突き刺すもので。
養成所卒業後、一時燃え尽き症候群なのか心は吹けば飛んでしまう灰のようになりました。

お芝居の道を諦めた、適応障害
一つ目の養成所の卒業後に数ヶ月だけ二つ目の養成所に通っていた時期があります。
どうして数ヶ月だけかというと通い始めてすぐに稽古場に向かう最中で胃がキリキリ痛み出したり心臓のドキドキが強くなったり、身体的不調が出始めたからです。
なにかおかしいけど自分の決めたお芝居の道のために頑張らねばと。
きっとハードな大学生活も気力で乗り越えていたからこそ、この時の不調も気力で乗り越えられると慢心していたと思います。
結局はその気力も出せなくなってしまっていたのですが、わたしはそれさえも気づくことのできないままひたすら進もうとはしていたようです。

異変に気付いたのは当時住んでいた学生寮の寮監さん、わかりやすくいえば寮母さんでした。
お芝居の道を選んでいることもハードな大学生活のことも知った(というかバレていた)上で見守ってくださりいつも心配しながら励ましの声をかけてくれていたのですが、さすがにおかしかったのか初めて止めさせるような言葉を掛けられました。わたしはそのお声掛けを空っぽに笑って流していたのですが、母親に実家から迎えにきてもらうレベルにまで達し東京を後にして実家岐阜に帰りました。そしてこのタイミングで養成所も途中で辞めました。

帰省してほどなく精神科にて適応障害だと診断されました。大学4年生の夏でした。
敢えて補足すると適応障害の原因はお芝居だけではありません。詳しくはまたいつか心の整理ができるようになったら綴ろうかなと思いますが、当時関わっていたいろんなコミュニティで挫折が重なったことが原因でした。その挫折の全てが東京にあったので東京から逃げ出して、精神的安息地の岐阜で療養する運びとなりました。
大学4年生だというのに今を生きることに精一杯で未来のことまで考えていられない状態というのは怖いことでしたが、卒論も就活も大学生活も全てすべて放り出してひたすら療養していました。
とはいえ、療養ってなんだ?休むってなんだ?状態のわたしは母親に協力してもらいながら、日向ぼっこしたり外で本を読んだり散歩したり病院に通ったりピアノ弾いたりぼーっとしたり…
いろいろやっていたのですが正直あんまり記憶にありません。ただただ療養していたそうです。その期間支えてくれていた家族には本当に申し訳ないけどその支えがなければ休むこともできない未熟なわたしでした。

お芝居から離れた、寛解から社会人一年目。
療養生活の中で徐々に心を取り戻しだすと次は、わたしはいつまで休み続けるのだろうと感じ始めました。
東京から逃げ出したけどいつかはもう一度立ち向かうために東京に戻らないといけないのに、わたしはいつまで岐阜に居続けているのだろうと。

そんな時、だいすきな祖父が他界しました。
あまりに急でした。急すぎていろんなことに心の準備もできないままただ受け止めるしかありませんでした。
療養期間中も祖父の家に行く時間があって、子どもの頃のように泊まりにも行きました。
だからこそわたしは祖父の最期に療養期間で会ったことがものすごく悔しくて。
どうして元気になった姿を見せてあげられなかっただろう。
どうして元気になった姿になろうと思わず適当に休み活動する時間を過ごせなかっただろうと。
今のわたしにおける唯一の後悔は祖父に寛解した姿を見せられなかったことで。
だから後悔や未練を残して死にたくないと思うようになりました。
そして祖父が亡くなった月の末に精神科で寛解を伝えられ、次の月の初めに東京へ戻りました。

東京に戻ってからは遅れを取り戻すために1日数時間という地道さを毎日続けて卒論を書き上げ、口頭試問が終わったらすぐに就活に取り組みました。
お芝居への気持ちには蓋をして、バイトで培った接客業のスキルを活かす方向に変更しました。
お芝居から離れた、役者としての空白の時間。
それでもお芝居をしたいと言う気持ちはずっと奥底にあって見て見ぬふりをしていました。
そして養成所時代のノートはお芝居の道を諦めてから箱に詰めて実家に封印していました。諦めたことでこのノート分の努力を無駄にした自分を責めるから。もうお芝居の道を諦めたというのにこのノートを捨てきれなかったことがまさしくお芝居への未練だけれど目を背け続けてきました。
あの日までは。

幸か不幸か芝居復帰のきっかけとなった、退社。
社会人1年目で勤めた施設は勤めて半年で閉園することになり、年度末には会社都合による退社を余儀なくされました。倒産やリストラという言葉だと伝わりやすいですかね、きっと。
閉園発表をしてからの日々は怒涛でした。日々忙しさが増しめまぐるしく変化する職場環境に順応しながら、再就職先を探して。今を生きるのにも精一杯だけど、未来のことも考えないとこの先生きていけない。
適応障害の時と似たような生活と心境でしたが、適応障害のおかげかどうにかやっていけました。もちろん家族やいろんな方の支えあってこそでした。

ただどう頑張ってもブランクを空けずに次の仕事にうつることはできない段階に入りました。またもここで春からの生活が見えなくなって焦りだすのですが、人生の先輩方のお言葉一つ一つもあって、あの時に蓋をした気持ちと逃げずに向き合いました。 
"もう一回、役者になってみたい"
"役者になるなら舞台に立ちたい"
その時には心に素直になれました。もう後悔も未練も残したくないという思いがありました。その結果、退職した次の日には劇団さんのオーディションを受けに行ってご縁あって舞台出演が決まりました。
幸か不幸か会社都合による退社のおかげで舞台復帰のきっかけを掴みました。

6年半振りに役者と名乗った、2度目の舞台。
人生初めて舞台に立ったのは高校2年生の冬、元々照明として参加するはずだった舞台で急遽本番1ヶ月前に代役が決まった高校生劇団の舞台。
そして人生2度目の舞台は社会人2年目の夏、
客演として参加した舞台で初めから役者として自分の役をもって座組に入った社会人劇団の舞台。

過去できなかったトラウマ、コンプレックス、
後悔と未練を断ち切ること、一度芝居で挫折した自分にとって芝居に一区切りをつけるための舞台にすること。自分の中では座組の中でもほかの役者とは熱量や熱のベクトルが違うんだろうな…とやんわり決意しながら客演としてお世話になるんだから私情を座組に持ち込まないことを心に決め稽古場に向かっていました。

ただ稽古場では「この多才な人たちのもとで一度芝居を諦めた自分に何ができる?」という不安を抱えながら、劇団さんの舞台に自分の人生を勝手に背負い込んでつぶれそうになっていました。
その中で座組の成長のために作品づくりだけでなく稽古場の在り方についても考えるようになり、座組一人一人と話すようになりました。
主役の方、お芝居の掛け合いが多い方、
座組の中で一番最初に仲良くなった方、
似たような思いで舞台に立っていた劇団員さん、
同じ立場の客演さん、違う立場の演出補佐さん、
などなど。
一人一人と作品やお芝居を通して話す内に、トラウマもコンプレックスもどこかへ消えていきました。一人で勝手に背負ってきたものもみんなの舞台として皆さんの力をお借りしながら荷を下ろすことができました。この座組におけるわたしの存在意義や存在価値を見出せるようになりました。逃げながらでも闘っていいことを知りました。
今までの努力は無駄ではなかったことを知りました。
そしてなによりやっぱりお芝居がすきでした。
わたしにはありのままになれる居場所として舞台がありました。
この夏に出演させていただいた舞台でわたしは、
役者としても、人としても、本当に成長することができました。
その一つの指標として養成所時代のノートを一部開けるようになりました。まだ開けないノートもあとありますが一部開けただけでもかなりの壁を乗り越えた感覚と目に見えるカタチを手に入れたと思います。

だから舞台の上で、役者として、芝居を続け、
芝居をするならお世話になった社会人劇団さんにわたしの居場所をつくりたいと思い、この社会人劇団さんや劇団員さんにわたしの持っているなにかを還元してみんなを支えながら支えられつつ成長したいと思い入団することにしました。

ただ当初の芝居に対してどこか区切りをつけたかった気持ちも大切にしたいなと思い、自分の名前ではなく役者名をつけて気持ち新たに役者になろうと決めました。
中村野々花から柴田ののかへ。
柴田はだいすきな祖父の名字。
ののかは母のつけてくれた大切な名を誰にでもわかりやすいようにひらがなへ。
ほかにも理由はあるけれどそれは柴田ののかとしての記事で綴りますね☺︎

社会人劇団TEAM909劇団員としてのこれから
ここまでお付き合いくださり本当にありがとうございました。
ここまでの紆余曲折と色んな一面をもった自分で持ってわたしは、
自分一人でどうにかこうにかひたむきに役者をしていた中村野々花から、
みんなでどうにかこうにかしながらひたむきに役者をする柴田ののかへ変化しようと思います。

その心の変化のために、わたしは気持ちと経験の整理を必要としました。
これでも省いたことがたくさんあって自分一人でここまでやってきたわけではないのに、支えてくださった皆さんのことをほとんど書き起こせてないのです。
でもまずは自分自身のことからと思いました。
柴田ののかとして綴る言葉にはそういう人とのつながりやご縁、優しさ、ひたむきさ、まっすぐさなどをもっていきたいです。

役者としての第一幕、中村野々花としての役者人生をこれにて幕を閉じます。
まあ、すぐに第二幕、柴田ののかとしての役者人生の幕が上がるのでご安心ください☺︎

本当に今までありがとうございました。

役者 中村野々花

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?