人間財産 したがき

今日は、明日の仕事を日程変更をお願いに行くのが一番億劫。
あと、烏骨鶏を探す、が変わった仕事内容。

結局、今月は後半から一気に忙しくなった。
こうして日記を書きながら日中考えていた事。

どうして不安なのか。
仕事の変更→自分に問題や何かしら心当たりがある
あとは信じていない事(人を信じられない、信じるのが怖い)→過去に同じような経験がある

愛着障害という存在について→愛着障害自体を追及、解明することは不可能であり、自分自身の人生や問題の解決にはならない事

基本的に不安は、自分に自信が無いと言う事で解決しない→どうして自身が無いのか、それが後天的な理由の場合は解決するのかしないのかをはっきりさせる

外見→変えればいい、変えられない事ならあきらめるか別のところで勝負するしかない、それか諦めて違う未来を選ぶだけ

内面→これは知性や人間性→これは家庭環境や遺伝の連鎖から脱却する為には自己理解(ここで障害や個性に向き合う)→変えなければならないなら変わることが出来る

※過去の自分や、老後、認知症になった時の事は考えない、今の自分が変わるだけ

僕は100年前のご先祖様の名前も知らない。
どんな人で、どんな家で、どういう人生を送りながら、僕ら未来の子孫を想い描いて想像していたのだろう。

紀元前にも学者はいたらしい。
紀元前って、江戸自体より縄文時代より前? 

その頃の人間って言葉を使えたの? 
毎回わからなくなる。縄文時代は人間なの?
※今の人間と比べてどれくらい原始的で、どれくらい人類が進化しているのか毎回わからなくなる。

とりあえず僕は3世代を100年と捉えるようになっているので、とりあえず60世代分、過去をさかのぼればその辺りの人類や先祖に当たる訳だけど。

・・

人間ってずっと同じことを繰り返しているんだなとつくづく思う。
それで、この20年くらいで一気に人類というより、文化文明の進化や発展が起きたと思っている。
自分達の事だから特別視する気は無いけど、自分達の事しか分からないから人間は歴史を学んで身につける事で成長するのだと思う。

僕は今まで変わった経験をしてきたと言っていますが、そこまで自分では特別だとは思っていません。ただ学ぶべき普通の事や経験の数は、その分、圧倒的に足りない。だから至らなかったのが原因でもあります。

子供は過去の失敗から学び、経験から変わる努力を本人がしない限り、大人に離れないと思うので、僕は今は完全に未来に夢や希望を失っていません。

夢や希望と言うと。

僕は今まで音楽以外にも、格闘技や、他の楽しみや感動を探しています。
常に感動という生き甲斐を見つけようとばかりをしています。
それも生き辛さの問題点です。

ここで「地に足」とか「身の丈」と言うから、誤解や間違いが生まれていると思うのですが、ようはバランスです。中庸です。

足るを知る事の連続、繰り返しが僕を強くもさせるのでしょう。

とはいえ、火傷も痛い思いもしたくない。二度としたくない。もうしたくない。これ以上は絶対に嫌だと叫びたい。
けど、そうはいかない。けど、同じ過ちは二度と踏みたくない。

そんな感じで生活しています。

・・

僕の好きで応援している選手が、自身のジムが10周年を迎えたと言う話をしています。

その自身のジムの会員さんで、10年続けてトレーニングをしている人が何人かいる。その人たちの10年は、実際にお金に換算しても凄い額になるし、お金だけではないが、それだけ人生の中で努力する意義や、生きる力みたいなものを僕は勝手に考えていた。

些細な事の繰り返し。

僕はナンバーガールのライブが観れたら自分の人生の夢の半分は叶うと、10年以上、19歳の夏からの僕の口癖だった。

でもその側面は、ナンバーガールのライブは無い(解散しているからありえない)事が実は前提にあり。
叶わない事が絶対だから、叶わないと何処かで自分でも解っているけど、それでもそこに立ち向かうという自分の中の構図が、僕に力強さや、夢を夢だけではないとして叫べたのかなと考えたりしています。

ただ、叶わない夢だから叫べるというのは、叶わない現実が怖いから、という覚悟というのか、現実的な面での弱さや脆弱性があるのも事実です。
僕は自分の生きてきた道を否定していません。
ただ、不安や恐怖心から現実逃避をしていた事は受け止めて次に考えを薦めたい。つなげたいと思っています。

僕の10代や20代の全体を通して、本当に幼かった部分があると思います。

それが上記にある矛盾と言うか、少し変わった極論を掲げられる、ある意味の強さと、そこから次に繋げられていない弱さが衝突して壊れてしまっているのが僕なのかなと思います。

当時の僕は叶わない事を夢として決め打ちみたいに行動できたからすべてがギリギリでも噛み合っていたのかなと思います。

都合のいい自分勝手な解釈です。

・・

でも、もうナンバーガールの再結成もライブもありません。

完全に物語は受け継がれて次の舞台に繋がっています。

・・

話は脱線しましたが、今の僕で言えば、格闘技を見て応援しているのが音楽に近い感動だと思っているのです。

・・

僕が世界一美味しい食べ物、世界一の感動と呼んで、人生を懸けて挙げるものは正直、日常生活の中で今すぐ100パーセント現実にする事は出来ません。

だからそこに向かって生きて努力していたのですが、まあ、その話は置いておいて。

毎日といわずとも、格闘技の試合をファンとして追いかける事は日常の些細な楽しみになります。

僕は男なので、最近聞いた話。

男は勝った負けたのような勝負事や争いごと、漫画で言うドラゴンボールのような世界観を好みやすいそうです。

そこで音楽ではなく、格闘技のように多少は勝敗がはっきりする事を、ファンとして応援し、共感しながら僕は僕で毎日を頑張って生きていくことが出来る気がします。

そういう事も僕の中では感動であり、そして感動の共有は僕だけの押し付けでは無いようにしたいのです。←これが難しい。

ここを優先順位から外してしまうと、今の段階では次に起きるのは、仕事や生活をする努力をする意義が無くなってしまう事だと思う。

人と共有しない。他人と共存しない世界線で生きていくのです。
それだと僕には生きる意味や、生き甲斐となる力を見出せない。

そこに僕の中の息苦しさ、またそれを解決する為の葛藤のような。
虚しさがある。

・・

僕の声を残しておかないと、と思う。

こんな日記の下書きでは、生きた証にもならない。
形に遺せる財産でもない。

今のままだと、中途半端なbotやAIよりも酷い内容。
中身も人間味も無い、
誰の世界にも残らない日記だけを残す動物になってしまう。

努力は人間の義務なんだなと思わされる。


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