死にたいくらい辛いときは逃げろ逃げるな

死にたい人は、その時、その瞬間、絶望や、もうこれから先、生きていても辛い事しかない。そう思っています。

一時的と言うと「違う」と反論する人、したくなる人は僕です。
同じ気持ちです。

でも、その言葉の揚げ足取りは止めて、その核心となる部分は
・生きていても、これから先(未来・将来)良くなる見込みがない
・生きていても、良いことが無い、ロクなことが無い、お先真っ暗と言うと冗談っぽく聞こえますが、完全に暗闇の中なのです。

とはいえ、飯食ったら元気になる、寝たら治る、そのうち忘れて時が解決するのは少し的外れです。

お金が手に入れば人は元気になります。

とりあえず、100万くらいあれば、その人は好きな物や、人に言わなくていい金の使い方で金を使うと思います。

その間は死にません。

金を持っている間は死にません。死ねません。

ここなのだと思います。

僕も死にません。死ねないのです。

死なない理由は、今大きく挙げるなら

① 死んで無になるのは「いざ」出来ない。
② 最悪でも、ライフラインは守ることが考える力が最低限あれば出来る事。欲のままに贅沢しなければ生きていける社会、日本。
③ ただ何となくのように、②のような非現実的な生活に憑りつかれていなければ人間は人間らしく生きることが出来る可能性がある。

これだと思う。

・・

僕は音楽を自分で演奏も創作もしたいと思わなくなった。

僕が好きなミュージシャン、アーティストが、
「言いたいことが無くなってからが勝負だ」
のような事を言っていました。僕はその言葉にも影響を受けています。

僕は言いたいことが無くなってきています。

そもそも僕は幸せに生きていたいというだけの、変な言い方ですが、本当に今もただの人(人間)です。

生きた証なんてものも、紐解けば、何の為に?となります。
それは「欲」でしょう。
これも何度も話して書いてきたと思う。

でも、僕は自己理解も、自分を理解してもらいたい、わかって欲しい、伝えたい思いや気持ちは、愛や幸せは、形に残すことが絶対最優先では無いと思う自分が今はいます。

つまらない奴になったなと思いたくないのですが、僕は好きな音楽や気持ちがいい楽しい音楽に夢中になり、心が血が騒ぐ、勇気を受ける格闘技格闘家の物語を読み、時に生きてるのが辛い時や何だか分からなくなるようなときのふとした夜に面白いことないかなとお笑いだけじゃなく、「何か」を探すのです。

僕はそういう人間で、そういう人生なのだと思っています。
最初からそうだったとも思います。日本語が変かな?

幸せになりたい。

そこに色々あったけれど、結局、要は楽しく笑って幸せに生きていたい。

それだけなのです。

その為には現実問題、お金は最低でも必要ですし、そこから僕に合った、僕が好きな、僕に必要な、僕が決めたアイテムを揃える。
それは宝物のように、自分の人生、自分を宝物(大切なもの)で補完していくのだと思います。

そこで僕は自分で音楽がしたいとは思ったことが無いのです。

すべてのがやっぱりここに辿り着くのです。
僕は音楽がしたいのではない。
僕はロックな生き様と言う、幸せになりたいだけ。
幸せになりたかっただけなのです。

そんな事、誰でも知ってるよ解ってるよと言われると思います。

最近、僕が生き辛さや生き辛いという感覚、言葉から解放されつつあるのは僕が変わったからです。強くなれたかはまだ分かりませんが、これでも僕は今を生きているのです。

これから何を生き甲斐にして生きていこう。
これから何が僕の楽しみになるのだろう。

僕は何に幸せを感じるのだろう。
誰を大切にし、何を守りたいと切に願うのだろう。

決死の想い出。

僕らは繰り返すのです。
人間は歴史を繰り返すのです。

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