自分がうっすら無になるのを待ってる
下書きです。
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婆ちゃんは犬の名前すら覚えられず毎日同じことを言っている。
可愛がっているけど、思い出す。
これ以上は日記でも、何があったとか、こういう一日で、とか書きたいけど、書かない方が良いのかなと思うのがまだ僕が正気な証拠だと自分では思っている。
違うと思う人はそれで結構。勝手にして。
これ以上書いたところで何もない。
むしろ自分でも飽きるくらい、考えても考えなくても苦しい。
人間だからね。
考えない事で無視できたり、あった事を無かった事になるほど、僕らは甘くない。
人間も世の中も甘くは無いし、こうやって、こういう人間でも生きていける事は、今の社会はそこまで辛く(からく)ないという事だと僕は思う。
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毎日イライラする事のひとつは介護だと思う。
もう過去の日記を引用する気力もない。
とにかく、家族の介護、家族が認知症になっての在宅介護、家族が病気になってからの看病や終末医療。
どれも大変で辛い事だけど、認知症は、本人の体調が良く、元気であれば、尚更大変だ。
自分が今まで知っている家族、今まで一緒に生活して暮らしてきたその家族が認知症になり完全に別人のようになる。
壊れていく人間、壊れてしまった人間という家族と、思いや気持ちだけでは解決も成立もしない最後の介護を、やってみると解るかもしれない。
仕事で医療や介護についている人は解るかもしれないけど、それ以外の人は、家族の介護や事でなければ、そこまで深く関わる事も無いと思う。
自分の生活や人生に影響を与える介護は、お金があれば、基本的な生活をしていれば、全員の折り合いがつく所で、介護施設に入所してもらうのが最善だと思う。
本人がどう思うかは別。本人はもう既に壊れているのだから。
壊れているという表現が気に入らない人は、僕の日記は見ない方が良い。
認知症になって、今の事も自分の事も、食事もトイレも入浴も全てが解らなくなっている認知症の介護。
どこかの線引き(タイミング)で、介護施設に入所しないと、家族の誰かが疲労や精神的に崩れてしまう可能性があると思う。
僕も去年から、今年で、婆ちゃんは介護施設に入所を検討していた。
今も主治医と相談は継続している。それに婆ちゃんが介護施設に入れば、この家の根本から変わる。
僕は最近まで結婚を前提に仕事や生活を変化させていた所なので、日記にも書いている通り、それが違う形に変っている最中。
これからが一番精神的に辛く戦いが始まるから。
それが想像できない、知らない解らない人は、黙って僕と関わらないで消えてね。
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婆ちゃんに限らない。
母親だけじゃない。
全員だ。誰か特定の人物でもない。特別な存在も含む。
人間の関係って何だろうか。
想いのポエムなんてのはいらないから。
曖昧風な日記で、それとなくそれらしい事を書いて悦に入る事は駄目。
しっかり怒りも悲しみも不安も生きられた喜びも僕は書く。
考えるべきだ。
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これ以上、ここにいて何に成る。
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みんな、色んな言葉を使うけど、自分に都合がいい言葉を勝手な解釈で自分用に変えて使っているだけだよね。
人によって感じ方は違うけど、些細なミスをして怒られて自分は繊細だからパワハラだと訴えることが出来る、ように。
些細なミスは誰が考えて誰から見ての些細なミスなのか。
怒られたのは自分のミスが原因なのか、怒った側にも問題があるのか、そもそも怒られていなく、注意や説明教育を受けただけかもしれない。
それをどう受け止めて理解するかは本人次第。
そこで暴力暴言があっても本人が本人の中で理解し受け止めて自分の力にするか生かすかすればそれは何も悪い事でも問題でも一切ない。
それが出来ない、現実を自分の都合のいいようにしか受け止めたくない人は否定して訴えるのだと、全部が全部ではないけれど、僕はそう思っている。
でも、人間の醜さは僕もこれでも見てきたから、僕はどちらが悪いとは実は一切思っていない。
僕だけが考えても、人間同士、人間相手の事だから自分だけの話ではないからね。
それに、今の僕がいう「僕だけが考えても」というのも、僕の視点だ。
そこも周りや相手、他人には関係ない。
だから僕も「勝手にしろ、僕も勝手にする」と言うだけ。言うしかない。
だから、僕も好きに生きようというより、僕は僕の正義の元、最後まで行くしかないと言いたい。
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最近は電話だけでなく対面する人も少しづつ増えた。
でも、楽しくない。
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白帯と青帯の話をしよう。
これは一例です。
武術をする帯の色で実力を示しているのですが、白帯の人が青帯に昇格する時に、本人が納得して昇格している場合と、本人が納得していない昇格があるそうです。
それは同情や指導者の人の性格や考えがあって、本人に勧めたり話をするそうです。
その中には、実力はまだ白帯だけど、青帯にする事で試合での相手が強くなり、そこで厳しい相手や環境でもまれる事で強くなると言う意図を説明する人もいるそうです。
全員では無いですが、中には、そういうお祭りごとが好きだったり、パーティー的な要素で昇格させて、道場(ジム)経営としてそういう事をする人もいるそうです。
そこは人間として考え方の部分が出てくる。
でも、なにより本人がそれで強くなれれば良いのです。
本人が希望する形に近づいていければ良いのです。
あえて強い激流や、厳しい環境に身を置く事で強くなる人と、逆に壊れたり気持が折れる人もいるそうです。
そこは本人の人生や運命次第だと僕は思います。
僕が生きたのは運命、僕が死ぬのも運命。
それと同じです。
全ての人間が幸せになり満足な人生を最後まで、納得がいくような綺麗な形、そんな人生を送れるなんて思わない方が良い。
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さて僕はどこに身を置くべきでしょう。
僕にとって今ここは地獄とは言える身では無いですが。
一貫して、僕が家にいる事は決して精神的に良いとは言えません。
しかし家賃や土地勘という意味では、実家にいる意味もあります。
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最近よく言われることは
「実家暮らしを否定する奴は、実家暮らしが出来ない奴の僻みやからな」
という事。
僕には無い考えでした。
僕自身が反論するにもメンドクサイのは、一人暮らしをしている人が自立して偉いみたいな意見を弾く時。
全員ではないけど、僕の周りです。変なのが一杯います。
結婚できなくて一人暮らしも同じです。それは
「誰かと一緒に暮らすことが出来ない人間の言い訳」
だそうです。
僕もそう思います。
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去年、僕は部屋の明るさや、音が無いと眠れない事、裸族になってしまう事から、一人で眠ることが出来ないと諦めました。
些細な事、どうでもいいような話に聞こえるかもしれませんが、そうやって家族とはいえ他人、人間同士が協力して共存する生活は、簡単な理想や努力だけでは絶対に成立しません。それに気が付いた一年半。
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日記は次の生活が安定するまで続けます。
できるだけ増えてしまう記事は、最終的に纏めます。
もし記事を統合して、好き、を押していただいた方の目に見える印が消えても、僕は交流をしてくれている人の事は忘れませんので、これからも、未熟で至らない変わらない僕ですが、必ず変わって最後の答えを出すので、見守っていて欲しいのが個人的な甘えです。