きれいのくに(不可思議な「啓発映画」)

大人編が高校生向けの「啓発映画」であったという種明かしとともに高校生編へと物語は移行する。

果たして大人編は「なんの」啓発映画だったのか。容姿が「自分が好ましいと思う方向に」変わったとしても、必ずしも「好きなひとの好きな顔」になれるわけではない。STOP整形!ということか。

「映画」(大人編)では「以前の自分まで戻る」(=若返り)がテーマだったわけだけれど、「現実」(高校生編)では「なりたい自分になる」(=整形)がテーマになっている(両者は分けられない部分もあるけれど)。

啓発映画を撮っているのはトレンド顔(吾郎さん)の映画監督。ただし啓発映画なので、トレンド顔の役者やエキストラは基本的に出られない。

トレンド顔の映画監督が、「ありのままの自分でいること」を肯定するような映画を作るねじれ。いや、そもそもあの映画は「ありのままの自分でいること」を肯定しているのだろうか。むしろ「ありのままの自分でいること」の困難と綻びしか感じられない。あれは啓発映画なのだろうか。

そもそもあの映画監督は誰なのか。「母さんと対等でいたいから整形した」と語った、映画監督と同じ顔をした誠也の父。あの映画監督は、そして誠也の父は、実はその内面は映画の中のとまどう夫、宏之なのではと思ったりもする。

映画の世界と高校生たちの生きる現実の世界はメビウスの輪のような形でつながっているような印象を受ける。

啓発映画は新しい世代に向けたメッセージのはずなのに、そんな映画を観に行くひとは凛の世代には少なくて、彼らはむしろ「チーム轟」のような、親世代が産んだ「トレンド顔」で溢れたメジャーなエンタメに囲まれて育っている。

そこでれいらは「昔の歌」をトレンド顔の「パパ」と歌う。

小学校から高校までのエスカレーター式の私立学校に通っているらしい5人組の男女の青春物語風の滑り出し。

「ヒリヒリした」という言葉が溢れていたが、個人的にはむしろ、もうひとつのキーワードであった「どろっとした」そら恐ろしさをこの作品からは感じた。

つづく


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