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僕が運動が嫌いな理由

僕は運動が嫌いです。

正確に言うと、嫌いというより苦手かな。
あまり楽しめない、と言った方がいいかも。

僕が小学一年の時、宮城県仙台市泉区の南中山小学校というところに通っていた。
その時の担任の先生は、千葉先生という、40代くらいのおばちゃんの先生だった。
そんなに悪い先生ではなかったと思う。

体育の授業で飛び箱があった。

4段とか5段とかだったかな。

もちろん、僕は飛び箱を飛ぶのは初めて。

はじめに先生が見本を見せて、それから子どもたちが飛ぶ。

ほとんどの子どもたちが飛べなかった。
仕方ないよね。
みんな初めてで経験がないんだもの。

その中で僕は、比較的すぐに飛び箱を飛ぶことが出来た。
すごく嬉しかったし、楽しかった。
何度も練習をしている内に、何人か飛べる子がチラホラと出てきた。

僕は、順番待ちをしてるときから、早く飛び箱を飛びたくて仕方がなかった。
自分の順番が待ち遠しかった。

早く飛びたい!早く飛びたい!
楽しい!
なんて楽しいんだ!

すっごく楽しかった。
ワクワクしていた。

しばらく練習していると、千葉先生が練習を止めた。
まだ半分以上の子達が飛び箱を飛べていなかった。

そこで千葉先生は、「僕」と「東くん」という子と二人を名指しして、「二人は前に出て来て」と言った。

まだ半分以上飛べない子がいる中で前に呼び出されたので、ひょっとしたら褒められるのかな?と思った。

はじめに東くんが飛んだ。
その後に続いて僕が飛んだ。

そして、千葉先生は「東くんがいい例で、僕のは悪い例です」と言った。

千葉先生は「二人は何が違うと思う?」と、飛べない子達に問いかけた。

飛べない子達は、あれやこれやと僕の悪い理由を次々と述べていった。
子ども達は、まだ飛べないので、当然的確なことはわからない。
だから、当てずっぽうや思い付きで、人が傷付く様な事を、何の罪の意識も無く、平気でどんどん言い続けた。

ひとしきり意見が出終わったところで、千葉先生は「手を付く位置が悪いんだよ」と言った。

「あー、そっかー」子どもたちは納得したようだった。

僕はその時、いわゆる「吊し上げ」にあったのだ。
生まれて初めての経験だった。
その時僕はどんな気持ちで、どんな表情をしていたんだろう。
今思い返すと、覚えているのは、絶望にも似た「なぜこんなことをされているの?」と「僕は何かとても悪いことをしてしまったんだろうか?」いう感情だけ。

飛べない子たちは何も咎められることもなく、飛べた僕は褒められることもなく、先生や飛べなかった子たちに、なんで公開処刑の様な事をされたのだろう。
ただただ千葉先生のさじ加減で公開処刑にされた。
先生という立場ならば、他にいくらでもやり方はあっただろうになぜ?
なぜ千葉先生は、手を付く位置が悪い→改善の余地がある→伸びしろがある→挑戦してみよう、という風に導かずに、公開処刑にしてしまったのか?

僕は何か悪いことをしたの??
小学校一年生の時の僕は頭が混乱して何一つ整理がつかなかった。

言葉では言い表せない、とても切なくて、とにかく悲しくて、どうしょうもなく胸が苦しくなった。
子供ながらにそれを悟られぬように、ひきつった顔でヘラヘラして見せて、それがまたより一層胸を苦しめた。

そこから僕は、ピタリと飛び箱を飛ぶことが出来なくなってしまった。

自分の順番が回ってくるのが楽しみでワクワクしていたのに、一瞬で自分の順番が回ってくるのが恐くなってしまった。

さっきまで飛べていたのに、飛び箱を飛ぶのがあれだけ楽しかったのに、そんな気持ちは全て吹っ飛んでしまった。
飛び箱を目の前にすると、恐怖の様なものが体中にまとわり付いて、体は緊張し、心が萎縮してしまったのだ。

それがトラウマになり、以降、運動やスポーツが「楽しい」や「好き」という気持ちが生まれることはなかった。

大人になった今でも、あの時の記憶は驚くほど鮮明に覚えている。

大人になってからは、スキューバダイビングとかレジャースポーツは好きでやってるけどね。
今は純粋に楽しんでやってるよ。
毎日ジムで汗も流してるし、今は運動嫌いじゃないかも知れないね。

千葉先生は、ただ効率的に、良い例、悪い例を比較させて、何が悪いかディスカッションさせて教育しようとしただけだろう。
大人数に教えるのだから、良い例を手本として、悪い例を吊るし上げるのが一番楽だし手っ取り早い。
あの時、千葉先生は単に「楽をしたんだ」と僕は思っている。

あれから30年が経ち、もう千葉先生もおばあちゃんだろうし、このエピソードは絶対に覚えてさえいないだろう。

千葉先生からすると、取るに足らない日常のひとコマ。
まさか悪い例にされた子が長い間トラウマになってるなんて夢にも思ってないだろうね。

結果的に、千葉先生が原因で幼少期に運動が嫌いになり、トラウマになってしまった。

だけどそのお陰で、スポーツ以外のことに十分に時間を割くことができた。
知らないことを知れることが好きだったから、勉強が楽しかったし、楽しく勉強に打ち込めた。
たくさん本も読んだ。
それはそのまま成績や学歴に反映され、学びたいことを学び、やりたいことを仕事にすることが出来た。

それに加えて、子供の頃からマンガ、アニメ、音楽などのカルチャーにハマって、今の僕の形を作る事が出来た。

ちょうど今の君の歳の頃、僕は軽音楽部に入っていて、かけがえのないとても素敵な青春時代を過ごすことが出来た。

音楽は今でも続けているからね。

音楽が無かったらお母さんとも出会えてなかったし、なにより君も存在しなかった。

教育方法としては千葉先生のやり方は、最適解じゃないとは思う。
はっきり言って褒められた指導法ではない。
完全な悪手。
千葉先生に限らず、先生という職業の多くの人が同様の指導方法をしていて、数え切れないほどのたくさんの子供たちが心に傷を受けてきただろう。

もしあの時、千葉先生に「飛び箱を飛べてすごいね。でも手の付く位置を変えたらもっと飛びやすくなるよ」と言われてたら、僕の人生は変わってたかも知れない。
貴重なリソースである「時間」を、読書や勉強、音楽やアニメではなく、スポーツに時間を費やしていたかも知れない。
そうしたら、確実に今の僕はいない。
もし、体育会系になってたら間違いなく今の僕はいないし、そういう意味では千葉先生には感謝だね。

教育というのは本当に難しいね。

結局、運動が嫌いなままでも、今までとても素晴らしい道を歩むことができた。

今回、何よりも君に伝えたいことは、
「言葉の力というのは、本当に恐ろしい」ということ。

言葉は、人の能力を伸ばすことも出来るし、人を幸せにも出来る。
でも反対に、人を傷付けることも出来るし、トラウマを植え付けることも出来る。

言葉の力というのはとても強力だ。

今日の話で言えば、例えば、君でいうところの部活動の後輩や、社会人になったときの後輩、自分に子供が出来た時などの教育に当てはめる事が出来る。
他人と比べるのは悪手。
人にはその人にしかないオンリーワンの個性があるのだから、他人と比べられていい気分になる人はいない。

言葉の力は「家族」「友達」「彼氏・彼女」など、全ての人間関係にも当てはまる。

君が発する言葉にはエネルギーがある。
そのエネルギーには作用があり、そして必ず反作用がある。
水面に石を投げたら必ず波風が立つようのと同じように。

いい言葉で相手を褒めたら、相手もいい気分になり、人生が変わり好転するかも知れない。
そしたら必ず君にもいいことが返ってくる

悪い言葉で相手をけなしたら、相手はショックでトラウマになり、それはそれで人生が変わるかも知れない。
それはいずれブーメランになって自分に返ってくるだろうね。

言葉を発する時は、反作用まで考えないといけないね。


相手を思いやる事
が一番大事だね。


言葉を大事
にしてね。

そして丁寧に。


今日も愛してる。


父より


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