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「花の下は涯がないからだよ」

桜の森満開の下


坂口安吾の短編小説
「桜の森満開の下」に出てくる一場面。
山賊と八人目の妻との問答での台詞だ。


私たちの街でもやっと、桜がチラホラ咲き始めた。
桜を見上げるたびに、私はこの物語を思い出す。


「桜の森満開の下」では、桜は
"不気味な恐怖の象徴"として描かれている。

この物語を読んで知ったが、江戸時代までは
桜は不吉なものとされてきたらしい。

現代における桜のイメージといえば、
あのピンクに染まる華やかな様子であるが、
もう一つの魅力として"散りゆく儚さ"が挙げられる。

その姿に昔の人々は“死”や“物事の終わり”を連想し、桜を恐れていたのだとか。
また、桃色からすぐに土気色に変化するため、
「心変わり」を意味するとも考えられていたらしい。

ハラハラと散る花弁を見つめながら私は
「死ぬことは、生きる人々にとって最大の恐怖なのだろうか」
そんなことを考えていた。

そのときふと私の脳裏に、
「涯がない」という言葉が浮かんだ。

そうか私たちは、果てしがない物事に
恐れを抱くのだ。

身近な例えをしてみる。
仕事などで同じ作業をひたすら繰り返しやらされるとして、単純な動作であれ結構苦痛だったりする。それが延々に続くとなると絶望的な気分だろう。
でも「何時に終わる」と定まっていれば
それを目標に黙々とこなすことが出来る。

遊ぶことだって、気持ち的にはずっと
面白おかしく過ごしていたいが、楽観的な心は
いつまでも続かない。ただひたすら遊び歩いていたら「自分は本当にこのままでいいのだろうか…」と勝手に不安感に襲われる。

食べることも、最初は美味しく頂けるが
人間の体の収容量にはちゃんと限界があって、
いつかは満腹が訪れるし、ひたすら食べ続ける
ことはある種の罰ゲームに近い。
いつまで経っても満ち足りないとなれば、
それはそれで苦痛なはずだし、少しゾッとする。

生きることだってそうだ。

いつか死ぬとわかっているからこそ、
私たちは人生の計画など立て、この時期には
こうなっていたい、という希望や目標を抱く。
命に限りがあるからこそ、日々を丁寧に過ごすことができる。
その限りある時間を少しでも長く確保するために、人は健康にも気をつけようとするし、
いつか自分達はいなくなるからこそ、未来へ繋ぐために新しい命を育む。

しかし、命が永遠だとしたら?
終わることがない。ずっとずっとこの先も、
私は私であり続けなければならないとしたら。
その果てしのなさ。想像さえできない。
想像できないから、恐ろしいのだろう。

天涯とか生涯とか。天にも、生にもいつか
ぶち当たる行き止まりが存在してくれる。

涯がないというのは、いくら歩めども、
いくら進めども、ゴールが見えないことを指す。
否、そもそもゴールという概念が存在しないことだ。

いつか終わる、ということは
きっと、とても安心なことだ。


調べていくと無限恐怖症(アペイロフォビア)と呼ばれるパニック障害まで存在しているらしい。

終わりのない命や、死後に"無"が永遠に続くという概念にとてつもない恐怖を感じ、普通の生活ができなくなってしまうという症状。
(そうか、死が終わりとは限らないのか)

なんというか、体験したことのない、そもそも自分に起こり得るかさえ分からない事柄を、勝手に想像して恐れ慄いてしまう人間の思考というのは、何とも厄介というか、愚かだとも思う。

想像力は、自分が進んでいける原動力にもなり得るし、自分を留まらせるストッパーにもなってしまうのだ。
(私の中の想像力は、どちらかというと後者)

来週には、伊勢も桜が見頃を迎えるらしい。
花を見れば絶景だ、春爛漫だと、浮かれて陽気になってしまう現代人な私は、本を片手にお弁当など携えて、お花見とでも行きたいところ。

しかし、小説の冒頭で
「桜の花の下から人間を取り去ると恐ろしい景色になりますので」
とあるように、静寂に包まれた満開の桜の景色を脳裏に浮かべると、そこにはある種の狂気が立ち込めているようにも思えてくる。

もしたった一人、満開の桜の下に佇むことがあったなら、私は何を思うのだろう。

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