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当たり前の日常。って



日常を蔑ろに扱ってしまっている。
そんな自覚が、薄らある。

昔の私なら、ただ純粋に楽しいと感じていた物事にも、どこか退屈さを覚えている瞬間がある。

退屈、というよりは
当たり前、という表現が正しいのか。

心が鈍くなっている。
幸福の輪郭をしっかりなぞっている筈なのに、
それが幸福だと、きちんと認識出来ていない気がする。
贅沢だと罵られてしまうだろうが、時折陥るこの感覚は、きっと誰にでもありうることだ。

昔は、毎日が特別に感じられていた。
私の身に起こる全てのことが、新鮮だった。


ある日、カフェのテラス席から
偶然見かけたおばあさんのことを思い出す。

一人でゆっくりと歩いていたかと思うと
徐に立ち止まり、歩道の脇にある切り株と
その隣に咲いていた名前もわからない
花のような雑草のようなものに目を向け、
かがみながら指を刺し、聞き取れないものの、
一人楽しそうに何かを呟いているのだ。

それを見て私は
「こんな風になりたかったのに、いつから
こんなに欲張りになってしまったのだろうか」
と、酷く己に落胆した。

自分の手に届く範囲の幸せを
じっくりと噛み締めながら生きていたいと、
そう願ってきたはずなのに。

当たり前という言葉が恐ろしい。
物事は当たり前になった側から、綻び始める。

それでも、望まざろうとも
周囲も、私自身も、幸せを単なる日常として
生活の中へ溶け込ませてしまう。

悲しい時間と同様に、楽しい時間も
平等に終わるのだ。
だからこそ、いつでも新鮮な気持ちで
大好きな人達との時間を少しでも長く
過ごしていたいと祈っているというのに。

尊い時間というのは、過ぎ去って手の届かないほど遠くに行ってしまってから、
やっと気づくものなのだろうな。

毎日が特別なこと、今日は二度と帰ってこないこと
嫌という程、身に染みている筈なのに。
どうして人生は、どうしたって人生は、
これの繰り返しなのか。

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