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【遺書日報_サードシーズン】2021年8月26日

またしても継続できませんでした。

生活やら何やらに追われると遺書日報を書く余裕がなくなって、ずるずると数カ月経過してしまうということを繰り返して生きています。


そんな中、なんでまた遺書日報を書こうと思ったのか。

振り返ってみると、最初に遺書日報を書いたのがちょうど去年の8月26日でした。


この日、家にあるありったけの酒を飲んでから死んでしまおうと思っていました(たぶん)。

思っていましたが、ちょっとした自傷行為の切り傷すら痛くて死ぬなんて無理無理無理無理となり、びっくりするくらい酔いが醒めました。

そして、死ぬのめちゃくちゃ怖っ!!の勢いそのままに書き始めたのが遺書日報です。


当時働いていた環境がかなり劣悪だったため、生きることを諦めて死んでしまいたいくらい辛かったのですが、死ぬことのハードルが高すぎて衝撃を受けました。

心身ともに健康になった今では「何を言ってんだ」と一笑に伏してしまいそうですが、去年の私にとって「死ぬことのハードルが高すぎる」のは、確かに切実な問題でした。

生きることも死ぬこともままならない鬱屈した感情を吐き出さないとやっていけなかったので、遺書日報が生まれたんだろうなと今では思っています。


初期遺書日報の役割が吐露の場だったため、徐々に死ぬことを諦めて生きやすい環境を求めはじめると、吐き出すものがなくなり、やがて何を書いたら良いんだ?と戸惑うようになりました。

余談ですが、とにかくわーーーーー!!!!っと勢いで書いていたものを読み返す作業は、かなり恥ずかしくてしんどいです。できれば見たくない。でも、当時の私は必死にもがきまくっていて、恥ずかしい文章を生み出すことと引き換えに日々をサバイブしていたので、あんまり馬鹿にもできないです。

そんなこんなで吐き出すものがなくなると、必然的に書くことを継続できなくなってしまいました。


しばらく遺書日報を書かない暮らしが続いていたのですが、この頃から少しずつ生活を営むことに重きを置くようになりました。たぶん。

セカンドシーズンでは遷延性抑うつ反応の寛解を機に、初期の頃とは趣旨を変更し、生活を記すようになりました。

これ以降大体生活ヘタクソ太郎日記です。


少しずつ生活ノウハウを蓄積していっているので、今読み返してもお!いいね~!となるような日報が多いです。

生活リズムがしょっちゅうがたがたになってしまい、それに引っ張られて家事炊事そのほか健康維持に必要な諸々もおろそかにしてしまいがちなので、セカンドシーズンにしたためたノウハウが、生活に綻びが生じた際の頼みの綱となってくれそうです(と言いつつ、実際のところ生活ががたがたになった時に遺書日報を読み返す気力があるかと言うと、あまりないだろうなとも思っています)。



そんなこんなで、本日はせっかくのサバイブ記念日なので、見切り発車で遺書日報サードシーズンに突入しようかと思いました。




もう既にこれを書いている時点で苦しい。文章を紡がなければいけない状況、苦しい。

幼少期、読書感想文とか何書いて良いか分からなくて苦手でした。


私は怒りや悲しみなどのいわゆる”負”の感情を吐き出す作業を除くと、日々の雑感を書くことがかなり苦手なのだと思います。「嬉しかった」、「面白かった」で終わってしまって、そこから何かを広げる営みを難しいと感じます。「世界と私」のような、漠然と大きなものと自分自身を接続して何かしら書くのも苦手だと思います。あんまりやった記憶がないので分かりませんが……。

セカンド同様に自分自身の生活について書くのが良いかなと思うのですが、ライフハック系は思いつかなくなると一気に書けなくなる予感がします。


そこで、ふとした思いつきではありますが、知覚が変化したということを書き留めようかと思いました。


例を挙げると、まず、数年ぶりに小説がすらすら読めるようになりました。以前までは文字がなかなか追えず、頭の中が澱んでいる感覚で、とにかく情報処理がつらくてつらくてどうしようもない状態でした。

が、ここ最近は1日で単行本1冊をすんなり読めるようになりました。学術的な深い理解ができているのかと問われると、そんなことは全くもってないと答えるしかないのですが、物語を読むうえで必要になりそうな情報処理はできていると思います。また、精緻な理解を追い求めるというより、その本が醸し出す(?)雰囲気のようなものをすっかり楽しめるようになりました。


次に、食事をするときの味の感じ方も、今まで何が起こっていたんだ?とうろたえるほど鮮明になりました。食べている時に、はっきりと口の中に入っているものの味や風味が分かり、今まで分かっていなかったのかと驚きました。甘い、酸っぱい、塩からい、何かは分からないけどとにかく何らかの出汁が利いてる、などなど……が、一気に私の身体へとやってきました。

いつ頃からか、食事の醍醐味を全く感じないまま咀嚼を繰り返していたのかと思うと衝撃でした。今日も、スーパーでお財布に優しい豆腐を購入したので冷やっこにして食べた際、かなりはっきりと大豆の風味を感じたのですが、数年前の自分が果たして同じように感じるかどうかは分からないなぁと、不思議な気持ちになりました。過去の自分が冷ややっこを食べたら、豆腐の柔らかさや冷たさについてなんとなくの印象を持つと思いますが、風味にたどり着けるかは分かりません。というか、4口目くらいで冷ややっこに対する集中が切れてそう。



こうして文章にしてみると、改めて不可思議だなぁとしみじみしました。

これら2つ以外にも何かしらの変化はあるはずなので、思いつき次第書ければと思います。


ということで、サードシーズンでは「己が何を感じどう認識するのか」を軸に書くことが多くなるのかなと思っています。詳細な自己分析に近いのかもしれません。


とにもかくにも、小説が読めて、料理の味が鮮明に感じられる日々はとても楽しいです。

何か大きな事を成し遂げたわけでもなく、没頭している趣味があるわけでもなく、「パッとしない日々」をステイホームしながら過ごしているのですが、このあまり起伏のない日々こそが、自分にとって真新しくて愉快なものとなっています。

そういった何はなくとも愉快な日報をこれから細々と書けたら良いなと願っています。


これにて本日の日報は終わりです。

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