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「殿中」としての町内会の話〜武装集団の停戦を可能とする神聖な領域だったのではないか説。

 僕はまちづくりの仕事をしているので、しばしば町内会のことを考えたりする。行政は、この町内会に、地域課題の解決を担う組織であることを期待することがしばしばある。しかし、以前も紹介したことだけど、町内会の当事者は大抵の場合、自分たちを親睦組織と捉えている。このように、行政の期待する町内会像と、町内会の自認する役割とには、結構な差がある。

 ところで、この町内会の自認する「親睦組織」とは、改めて考えてみると、一体なんだろうか。親睦というくらいだから、辞書的な意味合いで、「互いに親しみ合うこと、仲よくすること」と捉えていいわけだけど、そもそも近所の人と親しみ合い、仲良くすることの必要性は、特にインフラが発達した現代の都市部の生活においては自明ではない。

 もちろん、例えば震災などの大規模な災害が起きたときには、行政サービスの機能が止まるわけで、近隣住民との助け合いが必要だという話は当然あるし、防犯や福祉など、行政サービスでは行き届かない細やかな部分にまでかかわろうと思うと、近隣住民との親密さは必要かもしれない。しかし、それだってお隣さんとご挨拶したりするような日常的な営みでも可能といえば可能なわけで、町内会という「組織」を介する必要性が在るわけではない。

 では、この町内会という組織が何故必要なのか。僕はその回答を「世間」に求める。

ところで、「DDR」って言葉がある。
 これはDisarmament, Demobilization, Reintegrationのイニシャルで、日本語では「武装解除・動員解除・社会復帰」という意味だ。国連などが、紛争後の国家における復興と平和構築の促進を目的に行う国際平和活動の一種で。世界各地の紛争地で実施されてきた平和構築プロセスとされる。翻れば私達の生きる「世間」というのは、まだこのDDRが行われておらず、「非合法武装集団の解体」が未達な集団なのだ。
 「世間」を構成する周囲の他人が武装しているために、個々人の人権が守られていない。「世間」の人は、相手に攻撃の可能性を突きつけて、「依頼」をする。もっとも、それは攻撃の可能性をちらつかせる依頼なわけだから、「脅迫」や「命令」というべきだろう。そして、その脅迫や命令を受け付けない場合、つまり、要請した立場に伴う役割を果たせない場合、攻撃が実行される。

 以前も書いたけど、「世間」とは、武装解除未達の停戦状態を意味する言葉であると僕は解釈している。もちろん、ぼくらはいわゆる銃や刀剣のようなあからさまな武器を持っているわけではないが、悪口を言って回るとか、相手を貶める嘘を吹聴するとか、相手の家の窓ガラスに石を投げ込むとか、相手を攻撃する手段なんていくらでもあるわけで、その意味では、精神的な意味での「刀狩り」が済んでいないわけだ。

 僕らは武装していて、利害対立を解決するために、お互いに対して武力を発揮しうる。この状況では、利害の葛藤が生じたときに、紛争が発生してしまう。そうすると、当然ながらその紛争は、当事者だけの問題ではなく、周囲にまでダメージを与えてしまい、みんなが損をすることになる。

 このような環境で、地域住民全員が合意しうる条件が一つだけあるとすると、それは唯一つ、「紛争解決に武力行使をしない」ではなかろうか。

 ここで、みんなが武力を行使する権利を取り上げて、もしくは上納して、特定の主体に集権化するっていう発想になると、ホッブズのリバイアサンのイメージになる。しかし一方で町内会は、個々人の武装の権利を集権しているようには見えにくい。そんな手続きを踏んでいるような印象はないんよな。どちらかというと、「別に武装はしていてもいいけど、ここでは刀は抜くなよ」という約束に近い。

 というと、僕なんかは日本人であるためか、思い出すエピソードが在る。そう、「忠臣蔵」だ。「殿中でござる」だよね。

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