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「ソトコト」化、あるいは「greenz」化するまちづくりと、地域エリートの「かっこよさ」の行方を考える。

 常々、「まちづくりは地域エリートが担ってきた」と言っていまして。

 これは理屈の話というよりは、あちこちの地域をフィールドワークしていての肌感覚なんですが、これを実現してきたのが「エリート集団による統治」なんですね。つまり、集団の中で頭一つ抜けて多くの資本を有する「恵まれた人々」が、ノブレスオブリージュでその他の人々の面倒を見るという構図で。
 多様性というとき、水平上の違いだけじゃなく、上下、つまり「格差」というのも、多様性も含まれると思うんですよね。格差って、あんまり良くないようなものと言われがちですが、その格差を逆手にとって、町内の面倒を見る、お世話をするエリート層っていうのが表れていたんだと。
 エリート集団は、その集団内ネットワークの中で、ハブとモデムの役割を果たして、集団の中のニーズとシーズの情報を共有し、多様なニーズとシーズの組み合わせをコーディネートしていくわけです。そうすることで、マッチングの確率を高めて、問題を解決し、価値を生み出していくわけです。
 そんな役割をわざわざ果たしてくれるような、「親切なエリート」っていうのが重要なわけですね。
日当を払わなくても参加できる人しか参加対象にしない、というのは、一方で参加者の質の担保という意味では有効なフィルターとして機能してもいたはずで。僕は日本のまちづくりは、一種の聖人的な働きをする地域エリートに寄って賄われてきたはずだと考えていますが、そういう人を選りすぐるフィルタとして「タダでもまちづくりに参加できるし、したいと思える」人しか参加させなかったんじゃないかと。

 地域活動、いわゆるまちづくりって、非排除的な公共財を提供する営みなので、フリーライダーを妨げられません。結果、基本的にボランティアになるんですよ。そういうものなんです。

 で、フリーライドされるのなんていやだ、対価を約束されないならやらないぞ、ということはできますが、それをみんなが言えば、誰もまちづくりができなくなるわけですね。理屈の上では。でも、現実にはまちづくりは実施されてきた。それはどうしてか、っていうと「フリーライドをおそれない地域エリート」が担ってきたからですね。いわゆる地元の名士と呼ばれるような人たちです。

 ところが、よくいわれるように、まちづくりの現場では担い手が不足してきているっていうわけです。てことは、「その地元名士の数が減ってきているんじゃないか」っていう仮説を私は考えてきたんですね。

 日本って、相続税が他の先進国に比べて高いんですって。なのでよく「日本で成金は三代保たない」って聞きますよね。なので、よくも悪くも、少なくとも地域社会に限ってみれば、格差が減って平坦化してきたのか、なんて思っていたわけです。

<参考>財務省:主要国の「配偶者と子2人の場合の相続税負担率」(2018年1月現在)
https://www.mof.go.jp/tax_policy/summary/property/e04.htm
このグラフを見ると、各国に比べて日本の相続税が高い部類に入ることがわかります。
グラフでは3億円の課税価格の場合(グラフ内の縦線の部分)、負担率が9.53%となるイギリスに次いで日本は2番目ですが、約11億円以上の課税価格になると、負担率が約19%となり主要国の中で日本が最も高くなっています。
課税価格  税率
1,000万円以下  10%
1,000万円超から3,000万円以下   15%
3,000万円超から5,000万円以下  20%
5,000万円超から1億円以下   30%
1億円超から2億円以下  40%
2億円超から3億円以下  45%
3億円超から6億円以下  50%
6億円超から  55%
相続金額が大きくなればその分税率も上がり、3億円以上相続した場合は、日本では相続金額の半分以上も税金で納めなくてはいけません。
「日本は遺産相続で半分持って行かれる・・・」という表現は、この高い税率が原因となっているようです。
わかりやすく、相続税の税率を50%、所得税・住民税・復興特別所得税(以下、所得税等)の税率も50%として、多額の資産を稼いだ方の資産承継をシミュレーションしてみます。
Aさんは裸一貫で事業を起こし、税引き前で100億円稼いだとします。
すると、Aさんが生涯で払った所得税等は、100億円×50%=50億円。
Aさんの手残り財産は、100億円ー50億円=50億円。
その後、Aさんが亡くなり、子供のBさんに相続されたとします。
50億円×50%=25億円が相続税となりますから、子供のBさんの手残りは、50億円ー25億円=25億円となります。
更に、Bさんが亡くなり、3代目となる孫のCさんに相続されたとします。
25億円×50%=12.5億円が相続税となりますから、孫のCさんの手残りは、25億円ー12.5億円=12.5億円となります。
1代目のAさんが100億円稼いでも、それが、所得税等と相続税によって、3代目のCさんに承継される頃には、たったの12.5億円となってしまいます。
これが3代で財産がなくなる!?といわれる所以です。

 そんなとき、こちらの記事を読みまして(強調筆者)。

具体的にどのような人がボランティア活動に参加しやすいのだろうか。社会学ではとくに、社会経済的地位とボランティア行動の関連に注目する。というのも欧米の研究では、「資源仮説」、すなわち社会経済的資源が豊かな人ほどボランティアになりやすいという説が有力だからである(Mitani 2014)。実際に日本でも、世帯収入や職業的地位、学歴の高い人ほどボランティア活動に参加しやすいことが確認されている(豊島 1998; 仁平 2008)。
 しかし近年では、これらの関連に少し変化が生じている。簡潔に言えば、ボランティア活動率における学歴差は残っているものの、収入や職業的地位による差は小さくなりつつある(三谷 2014, 2015a, 2016)。かつて、高収入の人や経営者・役員の人ほどボランティア活動をする傾向があった。しかし2000年代以降、そうした傾向がみられにくくなっている。
 拙著では多変量解析という厳密な手法でこの傾向を確認しているが、ここでは簡単に収入・職業とボランティア活動率の関係をクロス集計でみてみよう(注)(図2・3)。図2では、とくに収入高位層の参加率が低下していることがわかる。図3では、かつて約37%もあった経営者・役員層の参加率が大幅に低下していることがわかる
 この背景にあるのは、以前と比べて経済的・職業的に優位な立場にある人に対して、市民的役割を要求する社会的圧力が弱まったことがあるのではないかと筆者は考えている。
 かつて、旧来的な地域共同体において、地元の有力者は“長”に推されやすく、住民たちの取りまとめ役を期待される状況があった(町内会長など)周囲の人々の期待に応えることが自らの特権的地位を確立することにもつながった。しかし、近代化の進展や経済成長とともに一億総中流化が進み、また1995年以降「誰でもボランティア」観が普及するようになると、一部の高階層の人々に市民活動を期待する風潮は弱まってきたと考えられる。
 一方で未だに、学歴差は歴然と存在している。図4から、1990年代も2010年代も大卒層が最も参加率が高いことがわかる。ここでみられる学歴差は、他の様々な要因の影響をコントロールしても残るものである。このように高等教育とボランティア行動の関連はいつの時代にもみられるものであり、諸外国でも一貫して認められる関連として知られている。その理由として、大学等において「社会問題への関心」や「市民的スキル(マネジメント力、情報収集力など)」が培われ、それらがボランティアになるのに有利に働くためと考えられている。

 つまりですね、この記事に従うなら、「エリートが減ったんではない」んですね。エリートは相変わらず存在している。しかし、ノブレス・オブリージュとして地域社会への貢献を果たそうとする「かっこいいエリートが減った」ってことなんです。それを、この記事では、市民的な義務を要請する社会的圧力が減ったからではないか、という仮説を提唱していますが、そこの真偽については今後の研究結果で明らかにされていくだろうと期待したいところです。

 さて、上記の記事に従って、地域のお金持ちがボランティアをしなくなった、ということはできる。しかし、それはエリートの地域貢献の程度が減った、ということではなく、貢献のカタチが変わった、ということかもしれない。何に変わったか。それは、いわゆる「まちづくりのビジネスライク化」と呼ばれるもので説明できると思っていて、要するに、クライアントワーク化したのかもしれないという仮説も立つと思っていて。つまり、これまでボランティアで担われていた部分が、お金と契約を介するクライアントワークに置き換えられていった結果なのではないか。これまでボランティアで地域貢献してきた、地元企業の役員などの地域エリートたちは、クライアントワークで地域貢献をするように変わっていったのではないか。

 例えばこんな研究がありまして。

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