いまもまだこの音色に恋してる
小さなガラス瓶に入った桜貝と星の砂。
小学2年生のとき、隣の席のイチヤ君から沖縄土産にもらった。
贈りものとしてはなかなかセンスがいい。
小学2年生の男子が選んだものならなおさら。
「ももちゃんだけに買ったんだよ」
その言葉の意味を深く考えないようにしながら、お土産を受けとる。
「ももちゃん、イチヤの好きな人知ってる?」
数ヶ月後、友人に聞かれたとき、それはきっと、と思いながら知らないと答える。
「あのね、カナちゃんなんだって。」
あれ、私じゃないんだ。
ホッとしたような、少し拍子抜けしたような。
好きでもないのにフラれたような気分。
家に帰って、この桜貝はなんだったんだと思いながら、小さな瓶を机の引き出しの奥底にしまった。
それからしばらく経って。
「ヨッチが、ももちゃんのこと好きなんだって!」
と友人がこっそり教えてくれた。
いつもにこにこしていてちょっとぽわんと抜けたところのあるその子のことは、私もわりと好きだった。
「ふーん」
私は興味のないふりをして、いつか告白されたりするのかなと内心はそわそわしていた。
しかし、それから何も起きることなく、数ヶ月もしないうちに、その子の好きな人は別の子になっていた。
そういうことが何度もあったわけではない。
好意を寄せられること自体稀だったからこうしてネチネチ覚えていられるのだ。
でも、せっかく好きになられても、いつのまにか終わってる。
勝手に好きになって、勝手に離れていく。
好きなきもちって、そんなにもすぐに消えてしまうものなのかな。
小学生男子の恋愛感情なんてそんなもんだといえばそれまでなのだが、私にトラウマを植えつけるのには十分だった。
きっとこのまま誰にも真剣に恋されることも恋に落ちることもないのだろうと幼心に悟り、誰のことも好きにならないぞと決めた。
中高時代、ほぼ女子校(40人のクラスのうち5人しか男子がいない)という特殊な環境で、ますますその思いを強くした。
私は、晴れて大学生になった。
私の入った大学は、女子よりも男子が圧倒的に多く、男子と関わらないことは難しかった。
いろいろと拗らせていた私は、常に警戒心を胸の内に宿しながら男子に接していた。
同じ文学部で仲良くなった女の子と一緒にマンドリン部を見学に行った。チロチロキラキラかわいらしい音を奏でるマンドリン部は女子が多そうなイメージがあった。
マンドリン部には、マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ、クラシックギター、コントラバス、フルートというパートがある。
マンドリンもいい音だなと思っていたが、私は中学生の頃吹奏楽部に入っていて、第一希望がフルートだったけれど、第二希望のクラリネットパートになったという過去がある。フルートへの憧れを捨てきれずにいた。とはいえ、高校は美術部だったから、ちょっと吹奏楽部には入りづらかったのだ。一緒に来た子はマンドリンパートを、私はフルートパートを見学する。
このとき、私の相手をしてくれた人は、工学部の3年生の先輩で、フルートパートのパートリーダーだと名乗る。
「どうしてマンドリン部に入りたいの?マンドリン部より吹奏楽部のほうがかっこいいと思うんだけど。でも、吹奏楽部はオーディションがあるんだって。サックス吹いてみたいんだよね。ひとりで行くの怖いからさ。いっしょに行ってくれない?」とその人はこそこそ言う。
いや、待て待て。
さっき、自分でパートリーダーって名乗ってましたよね。
パートリーダーがこんなふざけた人で大丈夫なのか。
「いや、あの、私はマンドリン部に興味があってここにいるので」
「そうなのかぁ。残念だなぁ。でも、そんなにこの部に入りたいなら仕方ないかぁ。フルートパートに入ってくれたら、焼肉に連れていってあげるからね。」
「いや、そんなに熱心に入りたいわけでも…」と私がしどろもどろになっていると、先輩はクスクス楽しそうに笑う。
なんなんだこの人は。
私をこの部に入れたくないのか、入れたいのか。
わけがわからん、と少し不機嫌になりつつ、その日は部室をあとにした。
一緒に来た文学部の友人からは「さっき話していた先輩って、ももちゃんの知り合い?」と聞かれる。
いや、さっき会ったばかりだよ。変な人だったよ。と答えたが、「ももちゃん、ずいぶん楽しそうに話していたよ」と言われる。
ん?楽しくはなかったぞ、と思いながらも、そういえばあの先輩は男子だったけど、普通に話せたなと思う。
このときの私に、あなたは将来この先輩と結婚することになるよと言っても絶対に信じないだろう。
いったい、なにがどうしてそうなった
と思うはずだ。
けれど、もうこの頃から、私はこの人のペースに飲まれはじめていたのかもしれない。
「どうして桃子ちゃんは打ち上げに出ないの?」
サークルに入ってはじめての小さな演奏会が近づいた頃、部室の入り口に張り出された打ち上げ参加者の名簿に、私は×をつけていた。
「終電が21時なので」
それは事実だったし、そう言ったら、たいていの人は引き下がる。
でも、この人は引き下がらない。
「じゃあさ、ユイちゃんの家に泊まらせてもらったら?」
ユイ先輩は私の一つ上の先輩だったが、私はまだあまりユイ先輩と話したことがなかった。
私が渋っていると、「じゃあ、ぼくも打ち上げ行かない」と先輩は駄々をこねはじめる。
面倒くさいなと思いながらも、ユイ先輩に相談する。
ユイ先輩は、快諾してくれて、はじめて一緒に打ち上げにいけるね、と喜んでくれた。
その様子を見ていたパートリーダーの彼は、にこにこしていた。
そうやって半ば強引に、私を輪の中に引きずり込むのが彼だった。
先輩の誕生日。私はその日が先輩の誕生日だと知らなかったから、何も用意していなかったけれど、ほかの先輩たちは、プレゼントを用意していた。
ユイ先輩が「先輩に似てると思って」と渡していたのは
しっぽを引っ張るとぶるぶる震える中トトロのぬいぐるみだった。
先輩は、「似てるかなぁ」と困惑しながら受け取っていた。
そんな中トトロみたいな、かわいらしい彼のおかげで、私は男子とも臆せず話せるようになった。
話してみれば、男子だって、おもしろくて優しい、いいやつばかりだった。
夏休みに入ってから、私ははじめて髪を染めた。
明るくなった髪を揺らしながら、私は部室の扉を開ける。
その日は、パートリーダーじゃないほうの3年生の先輩がいた。爽やかイケメンな彼は、私と目があうなり、かわいくなったね、と言ってくれた。髪の色を褒めてくれただけ、と自分に言い聞かせつつ、ちょっとこそばゆい。
パートリーダーも少し遅れてやってきた。
なんて言われるかな、と期待していたけれど、何も言われなかった。
たぶん何も気づいてなかった。なんだかモヤっとした。
夏合宿のとき、夜遅くまで練習していたら、部屋で先輩と私のふたりきりになった。
普段、終電に間に合うように部活を抜け出していた私は、今日くらいはみんなより遅くまで練習するんだと決めていた。
先輩はたいそう眠そうだった。
「私ひとりで大丈夫なんで、先輩は自分の部屋に戻っていいですよ」と言っているのに、
「ももこちゃんが頑張ってるからぼくも」と言って部屋に戻ろうとしない。
しばらくして、先輩のフルートの音が聞こえないなと思って譜面から顔を上げると、先輩は案の定畳の上でくるっと丸くなって寝息を立てていた。
フルート吹きづらっ…
と思いつつ、練習したかった私はそのままフルートを吹き続けた。フルートは大きなホールでも響く楽器だから、小さな部屋のなかだとだいぶうるさい。
ところが、どんなに大きな音を出しても、先輩はまったく起きない。練習に疲れ、自分の部屋へと戻るとき、「せんぱーい、おきてー」と声をかけてもみたが、そのまますやすや寝ていた。
随分と無防備だ。
私は、家で飼っているしばいぬを思い出した。
強化練習中、先輩の演奏にミスが目立った。打ち上げのとき、先輩は、別のパートリーダーから「悔しくないの?」と怒られていた。
先輩は勉強もバイトもとても忙しそうだということを私は知っていたから、そばで庇うチャンスをうかがっていた。
「頑張ってるのは知ってる。夜遅くにバイト終わってから部室来てるの知ってるし。バイト少し減らせない?もったいないよ、こんなに頑張っているのに、みんなに文句言われるの悔しいじゃんか」
私が庇うまでもなく、パートリーダーが頑張っていることはその先輩も知っているみたいだった。
パートリーダーはポロポロ泣いていた。
「ももこちゃん、こっち見ないで」と私に言いながら。
なんていじらしいんだろうと思った。
部活は3年生で引退。
1年生の私と、3年生の先輩が一緒に活動できたのはたった1年だった。
最後の演奏会は12月にあった。
最後の演奏会で、パートリーダーはいくつものソロを堂々と吹きこなしていた。
先輩の音は、どこまでも深くてやわらかい。
私は先輩の奏でるフルートの音が好きだなぁと思った。
打ち上げで、先輩は「かっこよかったですっていっぱい言われたのに、誰からも好きですって言われないんだけど」と嘆いていた。
私は、そんなことを言う先輩に半ば呆れつつ、もうすぐ先輩ともお別れか、そう思うと胸がちくりとした。
演奏会が終わって数日後、部活でクリスマス会があった。
パートリーダーは遅れて来ると連絡があった。
もうひとりの3年生の先輩から、パートのみんなにそれぞれのイメージカラーの写真立てが渡された。
ユイ先輩は、白。
天使のように優しいユイ先輩は、たしかに白がよく似合う。
私がもらった写真立ては、真っ黒だった。
なるほど、だいぶ先輩たちとも打ち解けて話せるようになって、私の腹黒い面が露出していたから、納得の選択である。
クリスマス会が終わる頃、パートリーダーがやってきた。
「さっき、先輩からイメージカラーの写真立てをもらったんですけど、私の写真立ては真っ黒でした」とパートリーダーに話した。
パートリーダーは「それはひどい」と笑っている。
「ももこちゃんは、もっときれいな色のイメージだけどなぁ。」
「きれいな色?」
「うーん、水色とか?」
水色は私の好きな色だ。
じわっと何かが込み上げる気がしたけど、
「そんなことを言ってくれるのは、先輩だけですね」と笑ってごまかした。
家に帰ってから、真っ黒の写真立てを、勉強机の上の一番目立つところにおいた。
その写真立てには、演奏会の日に楽屋で撮ったフルートパートの写真が入っていて、私のすぐ隣に先輩が写っていた。
引退してからも先輩と会うチャンスがあった。キャンパスは違えど、同じ大学内にいた。
偶然バスの中で先輩に会えたこともあった。
朝のバスで先輩に会えた日、「ももちゃん、何かいいことあった?」と友達に言われて、自分の顔がほころんでいることを知った。
いつのまにか、先輩に会えた日は、私のいい日になっていた。
先輩が部活を引退してから2度目の春を迎える頃、私と先輩の距離が少しずつ近づいた。
きもちを伝えるのは怖いけれど、好きのきもちはもう隠しようもなかった。
先輩に会いたいです
と勢いあまってメッセージを送ってから、うわっと思ってジタバタしていたら、
ぼくも会いたい
とすぐに返事が来て、もっと慌てた。
先輩は、それからまもなく私の恋人になって、それから数年後私の夫になった。
先輩から恋人になったとき、もう会うのに理由がいらなくなった。
恋人から夫になって、毎日会えるようになった。
毎日、毎日、好きのきもちが積み重なっていく。
彼は、彼の奏でるフルートの音と同じ、どこまでも深くてやわらかなやさしさと愛で、私を包みこんでくれる。
彼はあまり細かいことを気にしない人だから、少し忘れっぽいけれど、私は小さなことまで覚えてる。彼との思い出は、どんなに小さなエピソードだって全部愛おしくて覚えていたくなるのだ。
誰にも愛されないだろうと思っていた、いつかの私に会えるなら教えてあげたい。
私は毎日好きな人といい日を過ごしているよ、と。
そして、できるだけこの日々が長くつづきますように、と毎日願っているんだよ、と。
きっと消えない好きのきもちもあるんだと思う。
今の私はそう信じられるようになったよ。
それから、もう先輩の音が聴けないんだ、と悲しんでいる私にも教えてあげたい。
10年後も、先輩のフルートの音色を、毎週聴いているよ、と。
先輩も私もいまは毎日練習できるわけじゃないから、毎日練習していた頃よりも下手っぴだけど。
でもね、先輩の音は、いまも変わらず、深くてやわらかい音だよ、と。