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ちいさな海外旅行:ドイツ〜映画「ジョジョ・ラビット」を観る〜

海外旅行をすることにした。でも、非常勤で働きながら、来年大学院への進学を控えている私にそんな余裕はない。だが、私の海外旅行に、大金は必要ないのだ。

これは、角田光代さんの『彼女のこんだて帖』という本から得た着想である。その本は、連作短編小説で、各短編に出てきた料理のレシピがついたレシピ本でもある。この中の短編の一つに、毎月食卓で海外旅行をする女性が登場する。彼女は、外国の料理をレストランで食べて、それを自宅で再現するパーティーを開く。実際には行かなくとも、食卓で海外旅行ができる。

この物語を読んで、私も“海外旅行”をしようと思った。今すぐに。最初の行き先は、どこがいいだろう。

iPhoneの写真を整理していると、ドイツに旅行したときの写真が出てきた。イタリア(ヴェネツィア)に留学していた頃、南ドイツに遊びに行ったときの写真だ。水の都ヴェネツィアには、あまり木々がなく、杜の都・仙台で育った私としては、木々に覆われた南ドイツの風景に親しみを覚えたのだった。写真を眺めながら、ちいさな海外旅行の第1段はドイツにすることに決めた。

ドイツ料理について調べているうちに、この旅行は食卓に限らなくてもよいのでは、とアイデアがむくむくとわいてきた。ドイツの音楽を聴いたり、ドイツの美術を観に行ったり、ドイツの小説を読んだり。日本にいながら、ドイツ文化に触れる方法はたくさんある。ドイツの作曲家について、調べていると、次々と出てくる。ベートーヴェン、ブラームス、バッハ、シューマン、ヘンデル…そういえば、県美術館はドイツ表現主義の作品を集めていたっけ。ドイツ文学といえば、なんだろう。少しドイツ語の勉強をしてみるのも楽しそうだな。…と考えながら、ドイツの映画についても調べた。すると、戦中のドイツを舞台にした映画が、上映中だという。しかも、今週で上映終了してしまう。いつもなら、彼氏と観るけれど、次に会うときには終わっている。私は、初めて一人で映画を見に行くことにした。

もうお分かりの方もいると思うが、その映画の名は、「ジョジョ・ラビット」だ。ナチスに心酔するドイツ人の少年ジョジョの物語。(ここから先は、映画のネタバレあり)

映画が始まってから、ドイツ語じゃないことに気づいた。映画「ライフイズビューティフル」では、主人公たちの話すおおらかなイタリア語とは対照的に、ナチスドイツの話すドイツ語は、とても厳粛な響きだったことが印象に残っている。でも、今回の映画は、英語だからこそ、重くなりすぎずにコミカルに描けているのかもしれない。

映画の序盤はとてもコミカルで、ちいさな海外旅行を楽しむ余裕があった。それは、海外旅行兼タイムトラベルだ。でも、その明るさがちょっと不気味だった。アイドルのように、ヒトラーを讃えるドイツ国民たちの様子は、まるでビートルズやクイーンが来日したときの日本人を見ているようだった。まるで、アイドル。政治権力を持ったこのカリスマ的アイドルに、ドイツ国民は踊らされていく。今でこそ、ヒトラーは残虐な独裁者だが、当時のドイツ国民はそれを見抜けないほど愚かだったのか。絵本『茶色い朝』が頭をよぎる。初めは、自分たちには関係ないと流れに身を任せる。その他人事だったことが、「自分ゴト」になったときになってようやく、手遅れだと気づく。

映画の後半、私の旅行気分はなくなっていった。

ユダヤ人の少女エルサを匿い、戦争に反対していた母親が、絞首刑に処される。そうして自分の周りに被害が及んでようやく、ジョジョは自分の信じていたものに疑問を抱きはじめる。このときのカメラワークが、なんとも言えない。画面に映るのは吊るされた母の膝から下だけ。でも、映画を観ている人は、その足元だけでそれが主人公の母だとわかってしまう。青いコートに洒落たレースアップシューズ。戦時中なのに、ドイツではこんなにすてきな服装ができたのかと序盤は疑問に思っていた。戦時中のドイツといえば、親衛隊のイメージが強く、カラフルな服装を纏っていることが新鮮だった。川辺を散歩するときも、踊るように歩いていた母。でも、戦時色に染まるドイツにおいて、彼女の存在はあまりにも明るすぎた。

母を亡くしたジョジョの悲しみの矛先が、エルサへと向かう。ジョジョは、ナイフでエルサを斬りつけようとする。エルサに恋心を抱いていたジョジョが、彼女にナイフを突き立てずにはいられないことに、やるせない気持ちになる。戦争は、必要のない憎しみの連鎖で起きていくのかもしれない。

終戦前夜、爆撃を受けて、がらがらと崩れ落ちる街並み。煉瓦造りの頑丈な建造物が、廃墟へと化す最中、ジョジョの信条も音を立てて崩れ果てていく。年端もいかない子供たちに武器を次々と渡していく親衛隊の女性。純粋にナチスを信じて疑わない者が、無残に散っていく。日本の特攻隊を思わずにはいられなかった。

ドイツが負け、連合軍に捕われそうになるジョジョを助けてくれたのは、かつてジョジョを指導した将校だった。将校でありながらもジョジョの美人な母親に頭が上がらず、どこか憎めない彼は、ドイツ軍の下っ端に追いやられたことで、ナチスに染まりきることなく人間らしさを保てたのだろうか。いや、どのような立場であっても、彼のように、血の通った温かな人間はいたのかもしれない。人間と化け物がいるわけではない。人間が化け物にもなりうるのだ。

この映画は、連合軍の勝利、非人道的なナチスに対する、自由と民主主義の勝利で終わる。街には音楽が流れ、ユダヤ人の少女も壁の外へと解放される。

映画が終わり、劇場をあとにしながら、本当にあれでめでたしなのか、と疑問がよぎった。連合軍は、正義の味方だったのか。悪役ドイツが負けて、正義の国アメリカが勝ったなら、どうして戦争はなくならない。日本では、「敗戦」とは言わない。「終戦」という。戦争は、終わったのだ。負けたのではないと言わんばかり。そこから、日本人は思考を停止してしまっているような気がする。イタリアに留学していたとき、イタリアの学生たちも政府には批判的だったが、きちんと自分の国の政治について語っていた。私は、自分の国の政治をよく知らない。イタリアに行くまで、そのことを恥ずかしいとすら思っていなかった。おそらくほとんどの人がそれで平気だと思っているのではないか。

自分には関係ないから。本当にそうか。自分が巻き込まれるときには、もう手遅れだ。戦争が正しいとはきっと誰も思わないが、戦わなければ討たれるという時代だってあったし、これからだってないとはいえないのだ。

もっと自分ゴトとして考えなければならないのかもしれない。

実際に海外に行ってみなければわからないことはたくさんある。でも、せっかく海外に行っても、その表面を見ているだけではわからないこともあると思う。私も、勉強不足のままイタリアへ行ってしまったため、表面しか見ていなかった。日本に帰ってきてから、書物の頁を繰りながら、改めて学んだことも多い。だから、私は、今回のドイツの旅のように、ちいさな海外旅行を続けたい。海外を見ることは、海外のことを知れるだけでなく、日本を見つめ直すこともできると思うから。

さぁ、次はどこへいこう。