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近くて、遠い、絵を描く人

小学生の頃に通っていた絵画教室で、ひときわ上手に絵を描く男の子がいた。

私よりも二つか三つくらい歳上のお兄さん。

小学生の頃、二つ三つ年上のお兄さん・お姉さんたちはとても大人びて見えた。
描く絵も、小学校低学年の子と高学年の子ではかなりの差がある。
自分と比べて、二つ三つ年上のお兄さんの絵が上手に見えるのは当たり前と言えば当たり前だった。

けれど、そのお兄さんは、お兄さんと同い年のお兄さんやお姉さんと比べても、ずば抜けて上手だった。

絵画教室では、実物を見て描くこともあれば見ないで描くこともある。

でも、そのお兄さんは、見ながらではなくとも、見えているように描くのだ。

いまだったら、小学生でもスマホやタブレットですぐに画像を検索して見ながら描けるのかもしれない。だが、私が小学生だった二十年頃前の絵画教室では、そこにあるもの以外は、想像で描くしかなかった。いつかあんなふうに描けるようになるのかなと、その頃の私は無邪気に思っていた。


絵画教室は、毎週金曜日の放課後に開かれていた。

絵画教室の先生は、とびっきり明るい女の先生で、いつでも、子どもたちに自由に絵を描かせることを楽しんでいた。

あるとき、先生が自身のことを子どもたちに描かせたことがあった。
画用紙に先生のポートレートをみんなが描く。

子どもたちは、色を塗る前に、先生に鉛筆で描いた絵を見せる。

男の子たちの描いた絵を見て、先生は「まぁ、ひどい!」と大きな声を出していた。

どうしたんだろう、と気になってちらりと絵を盗み見る。

先生に絵を見せると、「いいね、じゃあ次は色を塗ってみよう」と言われることもあれば、少し絵を直すように提案されることもあった。「もしここに何かを描き足すとしたら何がいいかな?」とか、「この部分はなんだろう、先生に教えてくれる?」と子どもたちの意見を尊重してくれる先生だったから、先生が「ひどい」と言うなんてよっぽどだと思った。

でも、絵を見て、「わぁ、それはひどいよ」と私も思った。

そこには、先生の三段腹だけがクローズアップして描かれていたのだ。

先生はあのとき男の子たちに描き直すように言ったのか、そのまま描かせたのか、私は忘れてしまった。

色のついた三段腹の絵たちを私は見たような気がするから、先生はそのまま色を塗らせたのかもしれない。ひどいと言いながらも、先生は子どもたちの視点を面白がっていたような気もする。

そんなおおらかな自由さが、絵画教室にはあった。
それは、学校にも、家にも、ないものだった。


先生は、絵画教室の先生でもあり、ピアノ教室の先生でもあった。

いつだったか、先生が、「いい音は、見えるの。いい絵は、聞こえるの。音楽は見えるように、絵は聞こえるように。」と話してくれたことがある。

小学生の頃の私には、わかるような、わからないような言葉だったけれど、先生の言葉はずっと私の胸の内にあった。


私は、小学六年生になった。

何年も絵画教室に通っていた成果か、学校では絵が上手に描ける子として評価されていた。

でも、私は、かつて絵画教室にいたお兄さんのような絵が描けないことに気づいていた。

かつて絵画教室に通っていたお兄さんは、もうその頃には絵画教室にいなかった。
中学生になると、部活動で忙しくなるから、絵画教室を辞めてしまう人が多かったが、なかには、土曜日の夜に絵画教室に通う人もいた。

かつて絵画教室でひときわ上手に絵を描いていたそのお兄さんは、金曜日の教室はやめてしまったけれど、土曜日の夜の教室に通い続けていた。
金曜日の夕方の教室に通っていた私が、それを知っていたのは、絵画教室の先生が話してくれたからだ。

先生は、誰かを贔屓するようなことはなかったけれど、みんなの刺激になるように、こんな面白い絵を描く人がいるんだよと、そのお兄さんのことを話してくれた。

そのお兄さんは、山手線の車内を描いたらしい。
「カラフルなのに、静かで少し寂しい絵なの」と先生は言った。
私は、それがどんな絵なのか、うまく想像できなかった。

でも、幸いにも、その絵を見る機会があった。

絵画教室では、年に一度東京に遠足に行く。
みんなが出品したコンクールを見たり、遊園地で遊んだりする。

その年のコンクールに、そのお兄さんの絵が出品されていた。

会場には所狭しと作品が展示されていたから、会場に足を踏み入れたとき、その絵を見つけられるかわからないな、と思った。

だけど、その絵は簡単に見つかった。

その絵には、電車の内部と数人の乗客が描かれていた。彼らには顔がなく、のっぺりとしているが、それぞれに色はある。色があり、動きもあるのに、表情がわからないせいか、どこか冷たく寂しい。

そんな冷めた視点をもつ絵は少なかった。
もっと迫力のある絵や、技巧を凝らした絵もたくさんあったけれど、その絵の静けさが、逆にその絵を際立たせていた。

絵には、賞をとったことを示す金色の紙が貼られていた。

田舎に暮らす私たちにとって、東京といえば、テレビの中に映る憧れの場所だった。それなのに、お兄さんは山手線の中に、都会の冷たさを見出していた。東京に来るたび、お台場だ!、原宿だ!とはしゃいでいた自分をあまりにも幼く感じた。


中学生になって、地元から少し離れた中高一貫校に通い始めた私は、勉強も部活も忙しくて、絵画教室に通うことも絵を描くこともやめてしまった。

でも、高校生になって、もう一度絵を描きたくなって、私は美術部に入った。再び絵画教室にも通い始めた。

三年間のブランクは思っていたよりも大きくて、私は自分の絵の拙さをなかなか受け入れられずにいた。がんばれば、もっと上手く描けるようになるはず、そう思っても、周りの上手な人の絵が目に入ってしまう。

私は、全然上達しない絵よりも、頑張れば頑張っただけの成果がすぐに見える勉強に力を入れるようになった。本もたくさん読んだ。
プライドばかりが高くなって、絵はいっこうに上手にならなかった。

絵を描くことは、いつしか勉強の合間の息抜きになっていた。


絵画教室には、あのお兄さんがときどき遊びに来ていた。
お兄さんも、息抜きをしに来ているようだった。

お兄さんは、絵を描くことを息抜きにしていたわけではない。
絵を描くことで、生きていこうとしていた。
だが、なかなか思うようにいかないようだった。

絵画教室には、先生とおしゃべりしに来ていたようだ。
少し喋ると、すぐに帰ってしまう。お兄さんは、いつも疲れているように見えた。

あるとき、そのお兄さんが描いた落書きを、先生はこっそりと見せてくれた。
二枚の猫の絵。どちらも、ペンで一発描きされた絵。
片方は、一年前に描いた絵で、もう一方は、その日描いた絵。

一年前に描いたという猫の絵は、ビルの合間から、猫が覗き見ている絵。猫はビルよりも大きくて、猫というよりも、猫又といったほうがいいだろうか。猫は、ぐしゃりとビルを掴んでいる。細部まで描きこまれた筆力に圧倒された。

その日描いた猫の絵は、それとはかなり対照的だった。ふんわりとした猫がひだまりで、ひなたぼっこしている。さらりとしたタッチだけど、ねこのやわらかさ、日差しのあたたかさが感じられる。

「捨ててって言われてるんだけどね、捨てられるわけないでしょう?」と先生は、落書きを大事そうにしまう。

「あの子にとっての春は、まだ遠いかもしれない。たくさん悩んでいるみたい。でもね、少しずつ近づいている気がするの。何年かかってでも、挑戦すべきことは、きっとあると思う。」
そう言い切る先生の顔はとても明るかった。


先生とそんな話をしてから、数か月後、私は大学に合格した。
私は、絵を描く道を選ばなかった。

高校二年生のとき、私は、かつてお兄さんが山手線の絵を出品していたコンクールで、最高の賞をとった。
《蛇行する自己の流れ》という心象風景画だった。
絵を描く人に憧れながらも、私は勉強の方が向いているんだと言い聞かせていた自分の姿を描いたものだった。賞をとっても、絵を描くことを選ぶ勇気は私にはなかった。

すんなりと大学合格を決めた私は、自分はやっぱり間違っていなかったんだ、と信じることで自分を納得させた。

何年かかってでもするべき挑戦なんて、時間と金のある人にしかできないと思い込んでいた。


私は、絵を描くことを選ばなかった。

だけど、絵から離れることもできなかった。

大学2年生で専攻を選ぶとき、私は西洋美術史を選んだ。

そして、紆余曲折あったが、今年の4月から私は美術館の学芸員になる。


最近、母から、あのときのお兄さんがいま画家として活躍しているのだと聞かされた。

世界各地からお兄さんの絵を求めにやってくる人がいるらしい。そして、世界各国の展覧会に出品しているという。

今も、お兄さんは、地元で描き続けているようだ。

私は、お兄さんの名前を検索した。


私は、お兄さんの描く具象画しか見たことがなかったが、いまお兄さんは心象風景の日本画を中心に制作しているようだった。

風や空や水といったタイトルのつけられた屏風絵には、繰り返し同じようなモチーフが現れる。

闇のなかに、降り注ぐ光と水。
闇と光が対立することなく、水となって混ざり合う。

具体的な形をとらずに画面に漂う光や水飛沫は、自然界に存在する鉱物からできた岩絵の具本来の美しさを見せてくれているようでもある。

自然界にあるままの姿ではないはずなのに、そこに存在することが自然であるような。

ひときわ、「水」というタイトルのついたシリーズに目を奪われた。

そのシリーズで描かれる「水」は、慈悲深い雨のような姿をとることもあれば、強大なエネルギーとして画面をのたうちまわっていることもある。画面から溢れんばかりの量塊となった水は、否応なく、津波を連想させる。

彼の故郷、そして、彼がいまも暮らすその場所は、震災のとき津波で甚大な被害を受けた街だ。

水は、私たちを潤す恵みであると同時に、ちっぽけな私たちを飲み込んでしまう畏怖の対象でもある。

描かれた水は、見たままに描かれているのではないが、水そのものを見ているのと同じくらい、もしくはそれ以上に、水そのものだと感じられる。


その絵からは、画面越しでも、水の音が聞こえた。


先生の言ったとおりだ。

何年かけてでも、挑戦すべきことは、きっとある。


私の好きな、ある画家はこう話す。

生きることは、私には絵を描くことでしかない。
それしか自分に納得できる生き方はない。
今日は今日の絵を描き、絵具を塗る。

香月泰男「画家のことば 第四回」『藝術新潮』23巻4号、1972年4月


私はそんなふうには生きていないし、そんなふうには生きられない。

いまも絵を描くけれど、私は絵を描かなくても生きていける。

だけど、絵を描かなければ生きている心地がしないという人を、大変そうだとも思うし、眩しくも思う。


私には、そうやって生きている人のきもちはわからない。

わかった気になってはいけないと思う。

けれど、絵を描きつづけることの苦しさを、その尊さを、私は少しだけ知っている。


私にとって、絵を描く人は、近くて、遠い。

そうやって生きている人の声に、そしてそういう人が奏でる音に、私は耳を澄ましつづけたい。

そんな声や音を拾って、その声や音を必要とするだれかに届けることが、私にとっての、何年かけてでもやるべき挑戦だと思っている。