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映画「パターソン」感想

これまでに見たどの映画よりも静かで、何も起こらない映画だった。けれども、起伏の激しい長編小説を読んだよりも、言葉の少ない詩集を読んだ後に、味わいの深さを感じるように、この映画を見た後に、もっとこの映画の世界に浸っていたくなるような心地よさがあった。どこにでもありそうで、きっとどこにもない、平和で美しい詩の世界のような映画だった。

1 パターソンに流れる時間

 この映画は、パターソンという街に住むパターソンという男性の一週間を描いた物語で、毎朝パターソンが目覚めるところから始まる。彼が送る生活は、時間通りで、規則的で、一貫していて、それは、彼の職業(バス・ドライバー)に求められる資質と重なる。毎朝、6時15分~25分くらいに目覚め、妻ラウラにキスをし、朝食をとって、職場へと向かい、バスの中で詩作をし、同僚に挨拶をして、家に帰り、夕食をとった後は犬の散歩をして、バーで一杯のビールを飲む、そんな何気ない毎日を、彼は繰り返す。映画では、月曜日から次の月曜日の朝まで、毎日を区切って描くが、その毎日に大きな変化はない。この映画で流れる時間は、起承転結や、進歩があるような西洋的な時間(進歩史観)というよりも、どこか瞑想的な、東洋的時間が流れているような気がする。
 だが、それは同じことをただ繰り返す、輪廻的な時間ではなく、同じように見えても、どこか違う、流れゆく時間であり、「ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」という時間の流れに思える。
 パターソンの生活は、毎日同じように見えて、どこか違う。毎朝目覚めるポーズも、月曜日は、ラウラと向き合い、火曜日は、背中合わせ、水曜日は、抱き合い、木曜日は、バックハグ…というように、少しずつ違う。同僚ドニーが、パターソンに漏らす不平の言葉も、火曜日は娘の歯の矯正や車の修理についてだったが、木曜日には、義母の同居や娘のバイオリンへの不満になっている。パターソンが、バスの車窓から眺める街の風景も、滝の水も、昨日とは同じようでいて異なるものだ。そして、一度粉々になってしまったノートは元には戻らない…覆水盆に返らず。
 この映画では、一週間という連続した時間を区切ることで、かえって時間の流れを感じさせる。それは、まるで日本の庭園によくある「鹿おどし(ししおどし)」のよう。鹿おどしは、流れゆく水を、せき止めることで、かえってその断続的な音に、水の流れや時の流れを感じさせる。この映画で流れる時間も、一日ずつ区切られ、同じような時間を繰り返していることで、その時々のきらめきを掬い取り、二度と戻らぬ時間を描いているように思う。


2 言葉やイメージの重なり

 ジャームッシュ監督は、ウィリアム・カーロス・ウィリアムズの詩集『パターソン』の舞台となった街パターソンに魅かれ、20年ほど前にこの街を訪れて以来、この街に住むパターソンという名の男性を主人公とした物語を、ずっとしたためていたという。この映画に出てくるバーでは、店の壁にパターソン出身の有名人たちの写真が貼られた殿堂コーナーがある。そのコーナーのように、パターソンという街のスクラップが、映画のあちこちにちりばめられている。 
 「パターソン」は、映画のタイトルでもあるし、主人公の名前でもあり、主人公の住む町の名前でもあり、ウィリアムズの詩集のタイトルでもある。一つの言葉に、たくさんの意味が重なっている。ちなみに、パターソンという街の名前は、政治家ウィリアム・パターソンに由来するという。映画の中で、何気なく交わされる会話にも、パターソンに関わるたくさんの人が登場する。バスの中で少年たちが話していた、ボクシング選手ハリケーン・カーターも、バーで出会う双子と同じ名前の歌手サム&デイブのデイブも、バスの中で大学生が話していたガエターノ・ブレスキもパターソンという街に暮らしていたことがある。また、ラウラが、目指す歌手パッツィー・クラインの本名は、Virgina ”Paterson” Hensyだという。まるで言葉遊びをしているように、言葉と言葉がつながり合う。パターソンを演じるアダム・ドライバーが、バス・ドライバーをしているというのも冗談のようだ。こんな冗談のような言葉の連なりは、まるで詩の韻を踏んでいるかのよう。詩の中で、一つの言葉にたくさんの意味が込められているように、この映画の中に出てくる言葉やイメージにも、たくさんの意味が重ねられて、一見単純にも思えるストーリーに「奥行き」を与えている。 
 パターソンという街は、かつて「絹の街」として栄えたという。だが、映画の中ではその街の栄光は影を潜め、時代遅れになったともいえるノスタルジックな風景が広がっている。その街の印象は、主人公パターソンとも重なる。彼は、携帯電話を持たず、詩をパソコンで打ち込むこともせず、ただノートに自作の詩を書き、昔の詩ばかり読んでいる。彼は、現代的とはとても言い難い、非常に古風な生活を送っている。
 そして、パターソンの街の産業を支えたのが、街を流れる「滝」による水力エネルギーであったらしい。主人公パターソンは、日常に転がるさまざまなものからインスピレーションを受けて詩作をするが、詩作をするとき滝の前にいたり、滝のイメージを頭に思い描いていたりすることが多い。街で出会った少女が読む詩も「Water Falls」であり、彼女の詩に彼は刺激を受ける。また、「秘密のノート」を飼い犬マーヴィンに破られ、打ちひしがれる彼が、謎の日本人から白紙のノートを受け取るのも、この滝の前だ。このノートが、映画の中で、一つの救いとなっていることは言うまでもない。街の中心を流れる滝が、パターソンの街の産業を支えたように、滝は、彼(=パターソン)の詩作の源泉となっているようだ。「パターソン」という言葉は、主人公の名であり、街の名でもあるが、その両者は、名前だけでなく、その特質も共有している。


3 意識と詩作

 月曜日に、ラウラが美しい夢、双子の子どもたちのいる夢 の話をする。すると、パターソンは一週間にたくさんの双子に出会う。通勤途中に、ふたごのおじいさん、バーでは、サムとデイブに出会い、バスからは双子の黒人の女の子を見かける。帰り道で出会った、詩を書く少女も双子だった。そして、映画からの帰路、ラウラに向かって、パターソンは、映画の中の女とラウラが双子みたいにそっくりだったと話す。どうしてこんなにも双子が出てくるのか。 
 一つには、前述したように、この映画の中では、言葉遊びのように、同じ名前の人が出てきたり、一つの言葉に二つ以上の意味が込められていたりすることの隠喩でもあるのだろう。 でも、こんなにもパターソンが双子と出会うのは、パターソンの意識(あるいは注意といったほうがいいかもしれない)が双子に向けられているからでもあるのだろう。こんなにも多くの双子に出会うのは珍しいことかもしれないが、毎日あらゆる人をバスに乗せ、街中を通りゆく人々を車窓から見ているパターソンは、もしかしたらこれまでも双子たちを何気なく見ていたのかもしれない。けれども、妻から「双子」というキーワードを刷り込まれた彼は、その言葉がきっかけとなって、これまでに向けることのなかった意識を双子たちに向けていたのではないかと思う。 
 こういうことが、映画の中で頻繁に起こる。「Water Falls」という詩を女の子から聞いたその日の夕方に、家の壁に滝(waterfall)の絵を見つけて、女の子の詩を思い出す。スマートホンなんて要らないとバーで語った次の日に、スマートホンが必要な場面がやってきて、妻に携帯をもつように勧められる。妻から「爆発して火だるまになっていたら大変だわ」と言われたが、バーの店主からもそっくり同じ言葉をかけられて思わず笑ってしまう。偶然の重なりと言ってしまえばそうだが、もしかしたら見落としていたかもしれないものが、ふとした言葉によって、見え方が変わってきたり、別の意味を持ち始めたりすることもあるのではないかと思う。 
 このような「意識」は、この映画の色使いにも向けられる。映画の始まりにおいて、黒地に水色の字で、監督や俳優の名が紹介される。すると、映画を見る者は、この「水色」に何か意味があるのだろうかと、マッチの箱、主人公の制服のシャツ、リビングの壁紙、バスの座席、滝に架かる橋、など水色のものに目が留まりやすくなる。この水色は、主人公がバス運転手という労働者階級(blue collar)にありながら、詩作をするという稀有な特質を強調しているのかもしれないが、どんな意味が込められているのかは、はっきりとしない。だが、映画の始まりで水色の文字を見なければ、見逃していたかもしれない「水色」に鑑賞者は目が留まりやすくなり、鑑賞者はこの映画の色使いの美しさに気付くことができる。
 パターソンは、日常の中に転がるさまざまなものからインスピレーションを受けて詩作をする。ときには、ラウラがミューズのような役割を果たしながら。パターソンの詩は、日常を切り取って、ありふれたもの(たとえば、「オハイオ印のマッチ箱」)を特別なものへと変える。それは、普段の生活では見逃してしまうような些細なものに、普遍的な価値を感じさせる「詩」という芸術のあり方を提示しているようでもある。そして、もちろんこの映画についても同じことが言えるだろう。ジャームッシュ監督が描いた映画『パターソン』はどこにでもいそうな青年の日常を描いた物語でありながら、詩のような芸術性をもつ。「神は細部に宿る」というが、この映画のそれぞれの言葉やイメージは詩のように重なり合って、日常の細部に潜むきらめきを思い出させてくれる。