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エッセイの執筆=自分との会話である。

無職といえど、日々を生きていればなにかしらの考えは浮かぶものだ。それらはエッセイの題材になるので、ふふふ、と思いながら全体的な構成を簡単にまとめ、エッセイとして書きはじめる。これを序文にして、こういう感じに展開して、帰結はこうしよう。ふむ、いいエッセイになるかもしれない。ワクワク感をエネルギーに文章をポチポチと打ち、ひとつのエッセイにしていく。その瞬間は、いつだって楽しいものだ。


考え、といっても高尚な、世界を救う救世主になるような思想が浮かぶわけではない。そのようなものが浮かぶ人間であれば、無職ではないはずである。たぶん。

私のエッセイは日常で感じたこと、創作に関して感じたことを素直に、しかし他人様に最低限お見せできると思える程度に客観的に記すものだ。執筆とはなにか、というテーマについて自分なりに真面目に考察して書くこともあれば、お散歩楽しいね、歩くと気分がいいよね、というワンちゃんやネコちゃんのような無垢な思いを千字にまとめて投稿することもある。

無加工の思考を文章として表せるレベルに形成して、エッセイとしてまとめる。完成した暁には充実感を覚えるし、それをお読みいただいた際などは思わずニヤニヤとしてしまうほどに嬉しくなる。スマホにnoteから通知が来たときの私の表情をお見せしたいぐらいである。いや、嘘なのだけど。だらしのない顔なので、見せるわけにはいかない。


エッセイを投稿する前には、当然であるが執筆という作業が必要になる。上記の通りに、自身の考えや日常の出来事についての感慨を文章にする作業だ。私の場合は構成は一応は作ってはいるものの、本当にぼんやりとしたもので、執筆の途中で道を逸れてしまうこともあれば、愉快なものが埋まっているかも! という直感で地面に穴を掘って進んでいくこともある。予定していた結論通りに終わらないこともあり、沖縄で飛行機を降りようと思っていたのに福岡に着いてしまった、でも福岡も素敵なところだからいいよね、というパターンも少なくはない。


私が楽しさを覚えるのは、そのような瞬間だ。自分でも意識していなかったような思いが、執筆中に浮かび上がってくる。それが楽しいのだ。


文章を書いている途中に、想定していた道を外れ、新たな目的地へと向かっていく。感性に任せて文章を紡ぎ、理性によるフィルターはありつつも、自分の中から溢れる心情をそのまま言葉にして書いていく。文章が自らの手を離れ、なかば自動的に文字が連なっていく感覚といおうか(あくまで感覚なので、私自身がちゃんと考えて文字を書いていることは留意されたい。留意されたい、なんて真面目ぶって言うことではないのだけれど)


そのように自分という人間の心のなかを掘り進め、茫漠としていた思考に形が与えられるとき、私は私と会話をしている気分になり、とても愉快な心持ちになる。そうか、私はそんなことを考えていたんだね。なら、次はこう考えてみよう。こう考えたら、次はどうする?

そうして文章を書き終えた際には一応の結論らしいものに到達し、そこに至るまでの過程を読み返しては、自分という人間を知っていく。無意識的な部分に目を向けて、私という海に深く潜っていく。それが楽しい。何十年と生きていても自分という人間には未知の部分があるように感じるし、自分という友人との会話で得られる発想は興味深く、今度はそれについて深堀りしてみようか、と新しいテーマとして発展することもある。執筆を通じて、自分自身と仲良くなっていく。思考の整理を行うという観点からいっても、文章を書くという行為は非常に有効なのだと、エッセイを書きはじめてからふたたび感じている。


エッセイは外部に向けたものではあるけれど、同時に自分自身との会話でもある。今日も、私は私とたくさん話せた。なかなかに有意義な時間だったといえよう。

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