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「死」とは何か から考えるタナトフォビア 死恐怖症

自分は 人間はどんなことを考えるのか、に興味があって哲学書を読むのが好きだ。

人によって考えることが違うため、色々な本を読んでは へぇ、ほぉ、 なるほど、と自分とは違う考えを吸収するのが楽しい。

頭は良くないため、哲学・人の思考について考えれば考えるほど悩ましくなる時もある。
 それでも頭を動かして考えているということが自分のプラスになっている感じがする。

そこで、昨年読んだ本でイェール大学 シェリーケーガン教授の講義内容である 「死」とは何か (原書:DEATH)を読んで思ったことを書きなぐっていく。

まずページ数が多く分厚い。この本の角で頭を殴ったら打ちどころが悪ければ危ない程に重く分厚い。
小説でも何でも読み始めたら最後まで一気に読み切りたい派の自分は一週間程かかった。
※普通量の本は3~6時間程度で一気読みする。

そしてこの本を手に取ったのは自分が小学生の頃から 死 に対して心底恐怖を感じて生きてきたため。
図書館で目に入り手を伸ばしたのがきっかけだ。

お風呂に浸かっている時、夜寝る前、ふと一人で自分の知らない宇宙のこと、死のことを考えてしまい、急に怖くなる。そんな経験が幼い頃からあって、小学生なんてまだまだ人生これからの時点で自分の死ぬことを考えて、さらに自分がいなくなった消滅した後のことを考えてものすごく恐ろしくなったものだ。 
しかも不思議なことに考え出すと止まらないのが怖いところで、小学生の頃に 家族愛、恋愛、人生経験、寿命、なんてところまで考えつくには至らず、 人生を経験すればある程度死について覚悟できるのかもしれないが小学生の自分は 消えたらどうなるんだろう、いや自分は消えてしまうんだろうか、幽霊や別世界みたいに他に何かあるんだろうか、図書室で見た地球の始まりは宇宙と書いてあったが、宇宙はどうなるんだろうか、自分が消えて、将来地球も消えて、宇宙もなくなるんだろうか、どうなってしまうんだろうか、と果のことまで考えてそこに自分がいないというだけで足が竦むくらい怖くなる。自分の意識、自我が消滅する未来が確実にあるということがそもそも怖いのだ。  

これを最近タナトフォビア、死恐怖症だということを知った。そんな名称も最近まで知らず、聞いて初めて ああ、自分が恐れていたものには名前がついていたのかと少し安心した。

小学生の頃 想像できない死に恐怖して、必死で考えることを中断した。明日の給食の献立を思い出せ、明日は何をするか考えろ!と無理やり思考回路を変えるよう目を瞑ったものだ。

中高生の頃、同年代と賑やかに遊ぶ時は無論死について考えることはないが、やっぱりふとした時に考えて恐怖した。皆笑って泣いて過ごしているけど何十年後には居なくなっているんだ、意識もなくなって無になっているんだ、と。

そして三十路を迎える今、社会に出て揉まれた分だけある程度死について表面的な理解はできてきたと思う。それでも本当に死について考え抜いたわけではない。本質的に納得も理解も分析もしてないのだ。

目を背けて、 死 に触れてはいけないタブーのような扱いをしていただけ。 
 
そこを今回の DEATHを手に取り、今一度逃げてきた死について考えて見ようと思ったのだ。

内容は死について物理的に、そして魂はあるのかどうかというところを哲学的に表現していて、恐怖する前に考え方が面白かった。 

読んだから死が何なのか全て分かるわけでもないし、正解はない。死とはこうである、断言もしていないし、ひたすら細かく考察する書という感じか。

読むことで自分の中で考え方の選択肢は増えると思う。

読み終わってすっきり爽快まではしてないが、読み進めながら講義を聞くように一緒に考察できたのはタナトフォビア克服?の一歩かもしれない。

これに尽きず、緩和ケア医の本を読んだりしているが、死についてはまだまだ考えることは沢山ある。きっと、人生経験を積むにつれて、また考え方が変わるのだろう。

死だけじゃなく、生きることにもフォーカスをあてたい。そこには愛情とか子供とか他者との絆とかそういった物もあるのだろう。未だに愛とかなんだとか分かっていないのだが、それはまた別の話で書いてみようと思う。

結局、死について考え方が変わったかというと特に変わってはいない。自分が無になることが恐ろしいし、出来れば死を迎えたくないのも変わらない。

死は生きる人間の背後にいつでも背中を押せる状態でいる。人間何をしててもいきなり呼吸困難になって死んだっておかしくないのだ。

そう考えると悔いのないよう毎日を全力で生きたい。と考えるが言うのは容易い…

タナトフォビアの考察、終わり

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