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「なにもしない」という配慮

高校生のころ、帰宅する意欲が湧かない時期があった。
帰れば、またあの空気を吸うことになるのだと思うと、心が重くなる。夕方、部活が終わってから図書館に居残り閉館時間まで勉強をして、朝は自習するためと言って早出をした。

図書館前で開館を待って、「おはよう、今日も早いなぁ」と先生と言葉を交わして図書館に足を踏み入れ、その日にある単語テストの勉強をしていた。
あるいは、教室のカギが開いていれば、教室で、やはり勉強をしていた。

書いていて思い出したが、高校生のころだけでなく、中学生のころも朝の誰もいない教室にいつもいた。朝早く教室に来るメンバーはたいてい決まっていて、普段はあまり関わらない人とも何となく喋ったり、仲間意識があった。
高校の頃は、どうだったっけな。中学生のときよりは仲間という感覚が薄かったように思う。だから、図書館を好んでいたのかもしれない。静かで、人も定期テスト前を除けば多くなかった。

朝のホームルームの始まる時間に合うように図書館を出ると、朝の打ち合わせを終えた先生たちがぞろぞろと階段を登ってくる。何となく、それぞれの先生たちの登って来る時間は決まっていて、A先生のあとにB先生、とか、1年生の担任の先生は早くて、その次に3年生の担任の先生たちが来る、とか、C先生とD先生はいつも一緒でおしゃべりしながら来る、とか。

その日会いたい先生にうまく遭遇できるように図書館を出るタイミングを工夫して、階段で会えたら嬉しくて、会えなかったら残念、みたいなのもあった。たまに時間になっても全然誰も登ってこないことがあったりして、昨日校内で問題でも起きたのかな、とか考えていることもあった。


図書館や教室で早くから、あるいは遅くまで勉強していると、司書さんや先生から「今日も勉強?えらいねぇ」「遅くまでおつかれさま」などと褒められることが度々あった。

特に遅くまで居残り勉強をしていると、冬などは外も暗いので「気をつけて帰りなね」と声をかけてもらうこともあった。


私は家路につく。
回り道をする。ゆっくり歩く。イヤホンからは英単語だったり、音楽だったりが流れている。寒い。カイロを手にして、マフラーをキュッと締める。

帰りたくない。

高校生のころ、主観的に家の居心地がとてつもなく悪い時期があった。
そのうえ、タイミングの悪いことに他のところでもいざこざが絶えなかった。常にギリギリで、いつどうなってもおかしくなかった。
高校生、というと、とかく受験勉強や就職活動に追われた3年生が大変だったと振り返る人が多いけれど、私はこの一時期のほうが、ずっと大変で、つらくて、しんどかった。

明日、息の根を止めよう。そう思うことでなんとか今日を生きる。そんな毎日だった。
大抵の場合、こんな精神状態では成績が下降するだろうが、私の場合は逆にこの時期のテストの点数は良かった。あるときは、9科目あった試験の中で、7科目は学年順位が1桁で、その中には1位や2位の科目も複数あったと記憶している。
図書館や教室で勉強はしていたからだ。
とはいえ、あまりに苦しかったせいか、この時期の記憶はおぼろげである。

勉強はただの名目でしかなかった。学校に居残る名目。
特に勉強に力を入れていたわけではない。
ただ逃げるように勉強に時間を費やしていたら勉強量が増えて成績が上がっただけである。

のちにこのことを、高校生であった当時関わりがあり、今も親しくしている先生に話したことがあった。
そんな状態だったとは、と驚かれた。
どうやら私はその辺の手品師より人を騙すのがうまいらしい。


あのときと同じ。
私はあてもなく大学に行く。

違うところは、勉強しなくてもいいところ。
最低限、他の人に迷惑を掛けなければ、何をしても、何をしなくても咎められない場所がある。
そこでは、寝ていても特に何も言われない。本を読んでいても、ご飯を食べていても、お菓子を食べていても、パソコン作業をしていても、もちろん勉強をしていても、何も言われない。

おそらく、最近は明らかに私の様子がおかしい──難しい顔をして考え込んでいたり、何時間も横になっていたり、涙目で窓の外に目を向けていたりすることに、気づいているだろう。私のいないところで、「○○さん、何かあったのかな」とか話しているのかもしれない、というか、高確率でしていると思われる。あの人たちが気づかないはずがない。
それでも直接的には何の言葉も掛けられない。基本的にこちらから話しかけなければ、話しかけられることはない。

あたたかい無視、優しい無視という言葉を以前耳にしたことがあるが、今の私はそういう場所に居させてもらっているのだと思う。

露骨に心配されないことが、とてもありがたい。
だって、話しかけられて「どうしたの?」や「大丈夫?」と言われたって、どうもしているし大丈夫でないからこうなっているわけで、でもおいそれと他者に話せることではないから、返事に窮してしまう。

ありがたく居させてもらっているせめてものお礼の気持ちで、挨拶は相手に伝わる声量でして、ゴミが落ちていたら拾ってゴミ箱にいれるようにはしている。
そのくらい。
ほぼ何もしない。何もされない。


何かをしないことは、何かをすることより、より相手のためになることもある。
何をしてもいい、何もしなくてもいい、そういう場に救われるときがある。
あの場所で過ごす時間で、このふたつを教えてもらっている。

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