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感情成分【日々のこと】

妻との会話で私がよく使う造語です。おそらくは成分ではないけれど…

私の妄想的仮説なのですが、人間の感情は科学的な何かしらの物として外に放出されていると思っています。味や匂いのような物ならばその成分を味覚や嗅覚が感じ取るように、光や音のような物ならばその波形を視覚や聴覚が捉えるように、感情が何かしらの物を発生させていて人はそれを掴むことができるのだろうと。その何かしらの物を「感情成分」と名付けた訳ですが、その存在はいつか科学的に解明されるはずだと妻に豪語しております。

もう何処かでは研究されていて解明されているような気さえする。私には届いていないだけで。それくらい自信があるんです、根拠が無いですけど…

何故このような仮説に至ったかと言いますと、感情成分が在る方が色々と辻褄が合うのです。空気の読める人と読めない人というのが世の中には存在します。よく考えてみれば、非常に曖昧な科学の科の字も無い話ですが、十分に市民権を得ています。それほどまでに皆に経験と実感があるのだと思います。これって感情成分を掴む能力の高い人と低い人がいるからだと私は解釈しています。眼の良い人と悪い人、鼻の利く人と利かない人がいるのように、感情成分を掴めてしまう人と掴み損なう人がいるんだと思います。だから機嫌の悪い人に周りがピリついていても、平然と話し掛ける強者が現れてしまうのだと私は納得しています。

あと経験上、大事な話をする時にも辻褄が合うのです。自惚れになりますが私は話が上手い方だと思っています。その反面、自分の言葉に酔ったり上手い例えをしたがるといった悪癖があります。普段の話ならいいのですが大事な話の場合はいただけません、伝わらないのです。悪癖の欲求ばかりが伝わって、肝心な思いが伝わらない。それってやっぱり私が邪念を放出していて本当の感情を放出できていないからだと思うのです。それでは相手も掴みようがない。たどたどしくはあっても、伝わることすら望んでなくても、素直にありのままを話した方が、むしろ相手に伝わっていることが間々あります。自分の感情をそのままに相手に掴んでもらったと考える方が自然な気がするのです。

とは言いつつも実際のところは、感情成分が在ろうと無かろうとどちらでもいいです。ただ在ることを前提に生きていこうとは思っています。外に放出している訳ですから普段から迂闊なことは思えませんし、清くいたいと思えます。大事な話でも取り繕う必要がなくなります、バレていることが前提ですから。ちゃんと話せていれば、ちゃんと伝わるはずだと信じます。

ちなみに感情成分のダメな使い方として、苦手な人を相手に笑顔のまま「苦手だ苦手だ」と強く念じてみました。この感情を掴めと、そして私を開放してくれと。でも、失敗しました。

私の苦手な人、空気の読めない人なんです…

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