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ずっとなりたかったんです。詩織様の、下僕に「、を喰らう」第二章 ー 4 【、を舐める】

「どうぞ」

 しなやかな指先がアイスコーヒーを差し出した。

 氷山の体躯のように、すらりとしたシルエットのグラス。
 やましいことばかり考えていた自分に少しの罪悪感を覚えながら、私はグラスに手をのばした。水滴が、ひたりと指を濡らす。

「豆からだなんて、すごいね。本格的」

「たいしたものではありません」

 氷山がつくっている時点で、それはもう「たいしたもの」。
 どこのバリスタがつくったものよりも、うんと価値がある。

「ありがとう。すごくおいしい」

「そうですか」

 自分の家のなかでも、なにも変わらない氷山。
 もう少し表情や振る舞いが柔らかくなるかと思っていたのに。残念。
 だけど、これも氷山らしい。

 私はまた頭のなかの氷山フォルダを更新していく。

 手をのばせば触れられる距離でコーヒーを飲む氷山。
 私と同じグラスで私と同じコーヒーを飲む氷山。

 ああ、もっと見たい。やっぱり見たい。

 ぐちゃぐちゃに乱れた氷山が――見たい。

「火山さん……」

 ふいに、氷山は真剣な顔をした。
 いつも真剣というか真面目というか、そういう顔をしているけれど、これはまた別の顔だった。

 氷山フォルダが更新される。

「なに、氷山」

「火山さんには特定のパートナーはいますか」

「パートナー?」

「はい」

「……それは、つまり恋人がいるかっていうこと?」

「そうですね」

 ぶるり、心臓が震えた。

 氷山がこんな話題を私に振ってくるなんて。
 ただの場を繋ぐための質問だとしても、それでもじゅうぶんだった。

 ここで取り乱したりしてはいけない。
 氷山と同じ温度で、氷山と同じように冷静に返さなくては。いいテンポで、ラリーのように。

 満面の笑みでふりふりと尻尾を振る犬のような振る舞いは、決してしない。

「いないよ。氷山は?」

「いません」

「そうなんだ。氷山って彼女いそうだし、すぐに出来そうなのに」

「なぜですか」

「だってモテるでしょ。氷山に告白されたら、断る子なんてきっといないよ」

「火山さんも断りませんか」

「うん。断らない」

「ではパートナーになってくれますか、僕の」

「うん。なるよ」

「いいんですか」

「うん」

「ありがとうございます」

 氷山はアイスコーヒーに手をのばした。
 私もつられて手をのばす。
 ストローをくるりと回すと、グラスは涼やかな音を立てた。

 おかしな、空気。

 これは氷山なりの告白だったのだろうか。

 氷山がこんな冗談を言うとは考えられない。
 ということは、ここから氷山と私のパートナー関係――つまり、恋人関係がはじまるのだろうか。

 おつき合いがはじまるというのに、氷山は笑ったりはしていない。
 感情の見えないいつもの顔で、ただ静かにコーヒーを飲んでいる。

 やはり、なにかがおかしい。

 だけど「ではパートナーになってくれますか、僕の」という倒置法は、とてもよかった。

 ここはもう氷山の氷の世界ではない。
 ここは、氷山と私の氷の世界だ。

 私はグラスをテーブルに戻した。
 声が上ずったり、妙に高くならないように注意を払う。

「氷山のこと、これからは慧《けい》って呼んでもいいかな」

「はい。僕も火山さんのことを名前で呼んでいいですか」

 その敬語はやめないの?
 私は喉まで出かかっている疑問を飲み込む。名前で呼んでもらえるのなら、それでじゅうぶんだ。


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