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効率性、経済的合理性とはまったく次元の異なったものが民主制、立憲主義に支えられた国民国家というものです──内田樹『街場の戦争論』

この本が出版されてからまもなく1年になります。

「僕がこれからここでおこなうのは、一種の「未来予測」です。このまま安倍政権の政策が続いた場合に何が起きるのかについて想像したある種の「ディストピア」のイメージです」
「自民党の改憲案が「何をしようとしているのか」について逐一できるだけ起案者の「頭の中身」について予測してゆきたいと思います。改憲草案の主目的は「九条を廃止して軍事的フリーハンドを獲得する」ことです」という予測を内田さんはしています。
今私たちは、政府が安保法制の集団的自衛権の解釈によって事実的には「軍事的フリーハンド」が可能になる事態に直面しています。
「僕は安倍政権の施策によって「日本はたいへん危機的な状況になると予測しています」
これが現実化しようとしています。

『街場の二十二世紀論』として構想されたこの本でしたが内田さんは書いているうちにある実感にとらわれるようになったそうです。それは「今いるのは、二つの戦争つまり「負けた戦争」と「これから起こる次の戦争」にはさまれた戦争間期ではないか」という実感でした。「その軽薄さも、その無力感の深さも、その無責任さも、その暴力性も、いずれも二つの戦争の間に宙づりになった日本という枠組みの中に置いてみると、なんとなく納得できる」というものでした。その日本の現状を注視し、予見性をもって綴られたこの本の内田さんの指摘は残念なこと実現されようとしています。

なぜこのようなことになってしまったのか。そして安倍=自民(&公明)政権はなにをめざしているのか。それを容認するかのような心性はどこから生まれてきたのかを追求したのがこの本だと思います。

始まりは、敗戦責任問題でした。他の枢軸国と異なり、日本には「自力でと戦争責任を糾明し、なぜこんな戦争を始めてしまったのかをあきらかに」し「戦前と戦後を架橋できる戦争主体がいなかった」のです。つまり「東京裁判があきらかにしたのは、戦争指導部には戦争主体を引き受けることができる人間がいなかったということ」だったのです。
「僕たちが敗戦で失った最大のものは「私たちは何を失ったのか?」を正面から問うだけの知力」でした。そして東久邇稔彦内閣の「一億総懺悔」と「配給された自由」(河上徹太郎さん)で始まった日本の戦後はその始まりから〝無責任体制〟でしかあり得なかったのかも知れません。

この無責任体質はいまや日本の宿痾ともなっています。官僚たちや行政府、司法府さらには立法府にもその弊害は浸透しています。立法府は憲法を忘れ行政府の独走を許し、また司法府も砂川判決のように〝高度な政治性をもつ条約については、一見してきわめて明白に違憲無効と認められない限り、その内容について違憲かどうかの法的判断を下すことはできない〟と明確に行政府の優位(政治的問題に突いては判断停止)を認めてしまっています。三権のすべてに責任回避の論理が入っているように感じられてなりません。

では強力な権力を持った行政府=安倍政権(自公政権)は何をめざしているのでしょうか。責任ある政治? 果たしてそうでしょうか。内田さんのいうように日本を「株式会社化する政治」なのではないでしょうか。
国民国家の株式会社化は何となく根拠があるように感じられるかもしれません。あのブッシュ元大統領(息子のほうです)が賞賛した考え方だそうです。
効率化、合理的で責任感すらそこにはあるように感じられるかもしれません。けれど株式会社の経営者が責任を負うのは株主に対してであって従業員ではありません。また株主の責任はいうまでもなく有限責任です。国民国家は有限責任であるはずがありません。

株式会社は利益を上げる(成長し続ける)ことがすべてです。コストを削減し(コストの外部化)、市場を見据え経営の効率化を図り利益の極大化を目的とするものです。
けれど国民国家はそうではありません。
「原理的なことを再び確認しますが、民主制も立憲主義も意思決定を遅らせるためのシステムです。政策決定を個人が下す場合と合議で決めるのでは所要時間が違います。それに憲法はもともと行政府の独走を阻害するための装置です。民主制も立憲主義も「ものごとを決めるのに時間をかけるための政治システム」です」
効率性、経済的合理性とはまったく次元の異なったものが民主制、立憲主義に支えられた国民国家というものです。
「経済成長に特化した国づくり」などありえない」ということをもっと冷静に考えるべきなのではないでしょうか。国益とは国家の効率化、とりわけ経済的効率化を図ることではありません。国家に株主的な存在を認めてはならないのです。
「あきらかに自己利益を損なうような生き方を進んで採択する国民の数がこれほどまでに達したのは、戦後どころか日本開闢以来はじめてのことでしょう。その事実の前に僕はうなだれていまうのです」
内田さんの悲観的な予測を覆すことがいかに可能なのか、それを思考する知性の必要性を強く感じさせた一冊でした。

知力ということでいえば、この本で内田さんがいう「身体的同期能力」というものの指摘も興味深く読めました。

書誌:
書 名 街場の戦争論
著 者 内田樹
出版社 ミシマ社
初 版 2014年10月20日
レビュアー近況:週末、カテゴリの違うサッカー贔屓チームの応援に、山形と宮城へ行きました。日曜日は石巻に。市の運動公園ではサッカー、大学野球、ラグビーの試合のほか、自転車の「ツール・ド・東北」も開催されていてとても賑やかでした。一方、この公園周辺には仮設住宅の大きな団地があり、市全体で10,000人を超える方が未だ入居されておられるそうです。街が本当に賑やかになるよう、お祈り申し上げます。

[初出]講談社BOOK倶楽部|BOOK CAFE「ふくほん(福本)」2015.09.14
http://cafe.bookclub.kodansha.co.jp/fukuhon/?p=4114

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