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歴史は「正史」だけでは語りつくすことなど決してできないのです──秦郁彦『昭和史の秘話を追う』

この本はまず、先頃、天皇・皇后両陛下が戦没者の慰霊に訪問されたペリリュー島でのある逸話から始められています。少し前にテレビドラマ化された日本軍と共に闘った美人芸妓の話です。ペリリュー島についてはこのテレビドラマを始め、NHKでも取り上げられつとに知られるようになりましたが、秦さんのこの一文はその女兵士伝説を実証的に追った最初期のものではないかと思います。もちろんこの伝説だけでなく、陣地の図解を交え、その島での戦闘ぶりも描写されています。

秦さんによれば
「いずれも昭和期前半の日本を巻きこんだ歴史の本流から、つかず離れずの距離を置いたスポットの情景である。正史の枠からはみでた断片的な秘史ないし秘話の領域に位置づけられるのかもしれない」
と、とりあげられたものは、このペリリュー島の女兵士を始めとする10のドラマです。

真珠湾奇襲では全艇未帰還となり成果をあげられなかった特殊潜航艇ですが、唯一と言っていい成果をあげた艇がありました。遠くアフリカ大陸の南部と向きあうところにあるマダガスカル島での戦闘です。イギリス戦艦の攻撃に成功したのです。
「英海軍公式戦史の著者S・W・ロスキルが、マダガスカルの勇士たちを「大胆にして輝かしい攻撃成果を挙げた」と評し、「第二次世界大戦中、他に例を見ない技量と執念」(コンプトン=ホール英海軍中佐)と絶賛した」ものでした。と同時に秦さんは
「それは太平洋戦争中に日本海軍が投入した十数基、後継の蛟龍型をふくめると数十基に達する特潜のなかで、唯一と言える成功例でもあった」と記すことも忘れていません。あくまで実証史家としての姿勢を崩すことのない秦さんの姿勢がうかがわれます。

人物一覧表や組織図等を活用する秦さんの方法は「スマランのオランダ人慰安婦たち」という極めて重いテーマでも使われ、事実を積み上げてなにが行われていたのか、何が起こっていたのかを明らかにしていきます。
実はBC級戦犯裁判で最も多く死刑判決が下されたのがオランダ領で起きた事件でした。秦さんはこのオランダ領で起きた事件の一つとしてこの慰安婦問題を追及しています。オランダの裁判記録を始めとしてさまざまな記録を駆使して、この慰安所がどのように作られたのか、どのように運営され、そしてなぜ突然閉鎖されることになったのか、その経緯と実態を迫っていきます。軍とはどのようなものであったのかを改めて考えさせるものでした。

「ベトナム残留日本兵の春秋」では大東亜戦争の理念であった、植民地解放、大東亜共栄圏、八紘一宇というスローガンに翻弄された人々の姿を追っています。ベトナム残留日本兵はベトミンに参加し、ベトナム独立を支援して「フランス、ついでアメリカを相手どり二十数年の戦乱に明け暮れた」兵士たちの姿です。ホー・チ・ミンに率いられたベトミンはのちにベトナム民主共和国を建国します。その「新政府が掲げたスローガンは「ベトナムはベトナム人のものだ」「歓迎連合軍」「フランス帝国主義打倒」が示すように、他の国内勢力や中国、アメリカ、日本などの警戒心を招かないよう配慮している。もし露骨に共産党色を出していたら、ベトミンに身を投じる日本兵はきわめて少数にとどまったかもしれない」というものでした。軍事教練を担当した日本兵は多かったといいます。その後のスターリン、毛沢東とホー・チ・ミンとのそれぞれの思惑の中で残留日本兵は異なった道を歩むものが出てきました。
終戦(敗戦)とは何だったのか、その時どこにいたかによって人の運命が決まることを感じさせるドラマだと思います。これはまた「毛沢東暗殺未遂事件の怪」という冤罪事件に巻きこまれた男にも言えることだと思います。

戦争の悲喜劇は兵器にも現れているようです。日本軍の開発した青酸ガス兵器「チビ弾」を追った章、司馬遼太郎さんにまつわる戦車の話を追った章、ここではいわゆる司馬史観に批判的に言及していますが、これもまた戦争・兵器にまつわる秘話の一つなのでしょう。

「インパール戦・山守大尉、死の突撃」では軍事史家としての秦さんの本領発揮といえるものですが、この本には軍事以外でも作家・堀辰雄や炎のランナー(先の毛沢東暗殺未遂事件も含まれますが)など興味深い「断片的な秘史ないし秘話」が収められています。どれも実証史家の手法で浮かび上がらせたものだと思います。「正史」では語りきれないものがあるからこそ歴史は何度も語られ、研究され続けるものなのだということを感じさせてくれた一冊でした、実証の怖さと共に。

書誌:
書 名 昭和史の秘話を追う
著 者 秦郁彦
出版社 PHP研究所
初 版 2012年3月23日
レビュアー近況:今日は業務お打ち合わせで日中横浜をぐるぐる。現在横浜スタジアムの近くですが、「絶好調」のチーム状態もあってか、街がキヨシ監督同様元気に感じます。

[初出]講談社BOOK倶楽部|BOOK CAFE「ふくほん(福本)」2015.05.08
http://cafe.bookclub.kodansha.co.jp/fukuhon/?p=3472

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