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教育改革のムーブメントをしぼませないために

 兄弟げんか、内ゲバ、宗派対立・・・はたから見ると似たもの同士でもう少し仲良くできそうなのに、近親憎悪というか、なぜか激しく対立し、憎み合ってしまうというケースには、枚挙に暇がありません。

 アクティブラーニングが盛んに喧伝された時も、「お前のは本当のアクティブラーニングじゃない!」とか「アクティブラーニングなんて、大昔からやってるわよ。今さら何を言ってるの?」とか「アクティブラーニング的だってさ(笑)。本家本元はこっち。”的”なんてつけちゃってバカじゃないの?」とか、とかとか…。

 そして私は思うのです。

 教育者たるもの、ダメ出しではなくてポジ出しでしょ?

 教育者たるもの、「ちがい」を許容できないでどーすんの?

 デレク・シヴァースの「社会運動はどうやって起こすか?」という伝説的なプレゼンが教えてくれるのは、まさにそういうお話です。

 最初に変なダンスを踊り出す若者が「リーダー」です。

 次いで、同じように踊り出す若者が「最初のフォロワー」です。

 そして、3番目、4番目、5番目・・・と、踊り出す者が続きます。

 リーダーだけでは社会運動は起こらない。
 ムーブメントの運命をにぎる最初のフォロワーが果たす役割がキモだ。
 1人のバカをリーダーに変えるのは、最初のフォロワーだ。
 最初のフォロワーの手招きがムーブメントを巻き起こす。
 最初のフォロワーは、もう1人のリーダーだ。

 いちばん最初にデレク・シヴァースのプレゼンを見た時に私が受け止めたのは、そんな感じのメッセージでした。

 しかし、繰り返し見てみると、じつはデレク・シヴァースがこんなことをポロリと言っていることに気づきます。

「リーダーが彼(最初のフォロワー)を対等に扱っていることに注目してください」

 たしかにその通りです。

「真似するんじゃない!」
「なんだ? お前のその踊りは? センスねぇな〜」
「俺より目立つんじゃねぇ。俺がリーダーだぞ!」

・・・というようなことを言っている雰囲気は、一切ありません。

 内ゲバを起こせば、運動は崩壊します。

 デコボコを認めなければ、「世界」に相渉ることはできません。

 教育改革、授業改革も、おそらく同じです。

 多様性を認め、学びを個別化しようとするのであれば、学校によって、教師によって、それぞれに異なるアプローチをすることを認め合うスタンスがおそらく必要なのです。

 マウンティングしあっている場合じゃないですよね。 

 

 

   


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