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1980年代の『青銅』と近代文学ゼミ―東京学芸大学教育学部

 かつて東京学芸大学近代文学ゼミナールの機関誌『青銅』は、手書き原稿を転写して印刷原紙を作成する印刷方法によって刊行されていた。カセットテープや黒電話と同様に、前世紀のごく限られた時期に汎用性の高いテクノロジーとして使われていた方法である。

 レジュメの作成も、シャープペンシルなどを使った手書き原稿をドラムに巻きつけて転写する輪転式製版機を使って印刷されていた。鉄筆で文字を書くガリ版印刷ではないし、現在使われているリソグラフのようなデジタル印刷機でもない。1980年代はじめのことだ。
 それはまさに、石器時代と鉄器時代にはさまった青銅器時代のようなつかの間の出来事であり、一太郎やWordを操作することはもちろん、印刷機やコピー機を操作することすら滅多になくなった私にとって、多くの記憶のひだの奥底の、もっとも懐かしい記憶の領域で、ノスタルジックな香気に包まれて保存されている。

 昭和56年、1981年に東京学芸大学に入学し、学部生のときに初めて『青銅』に掲載した駄文は、そんな時代でであったため、与えられた製版用の原稿用紙にシャープペンシルで清書されたものだったと記憶している。戦後文学について、同級生だったI氏との同時掲載であった。昭和文学ゼミの青銅委員としてI氏の原稿を先に受け取っていた私は、結論部のまとめ方をそっくり真似して最終段落を「以上、…」と書き出していたために、当時の明治文学ゼミの顧問であった山田有策先生から「一卵性双生児」のようだと酷評された。
 1980年代はじめ、昭和文学ゼミの大久保典夫先生、大正文学ゼミの内田道雄先生、そして山田有策先生と、東京学芸大学の日本近代文学の研究室が「本邦随一」と言っても過言ではないスタッフを擁していた時代のことである。
 3つのゼミは、それぞれに年間テーマを掲げ、大学院生から学部の1年生までがともに学びつつ、毎週熱心に活動していた。ただし、武蔵小金井駅南口のモスバーガーのある通りを200メートルほど東小金井方面に進んだところにあった養老乃瀧で毎週「打ち上げコンパ」を繰り広げていた昭和文学ゼミと、北口のドトールコーヒーのあたりにあったCapri(カプリ)というイタリアン料理店で「夕食会」を開いていた明治文学ゼミとでは、さまざまな部分で先鋭な対立軸があった。
 山田有策先生が、対立する(?)昭和文学ゼミのメンバーの原稿に厳しいことには定評があり、逆に大久保典夫先生の講評はしばしば明治文学ゼミの方の原稿の未熟さを手厳しく批判していた。
 したがって、結論部の段落の書き方を真似するという私の迂闊なふるまいは、格好の標的となり、同級生のI氏を巻き込み、枕を並べて討ち死をする仕儀と相成ったのだ。
 とは言え、懸命に文学に向き合い、ゼミでの議論で叩かれながら作り上げた自分の論を丁寧にシャープペンシルで書き記し、それが印刷製本されて3つのゼミで共有されるという体験のワクワク感、ドキドキ感は、なかなか他では得られないものであった。

 顧問の先生方の厳しい指導を受ける場として、まるで他流試合を行う道場のような雰囲気を持っていた『青銅』であるが、一方で3ゼミのつながりをつくり出していく場としても機能していた。
 そのような場を活性化すべく、3ゼミ合同ゼミ長というものをやってみたらどうかとそそのかしてくれたのは、内田道雄先生である。
 2年生になった頃から、昭和文学ゼミに毎週顔を出しながら、明治文学ゼミや大正文学ゼミにもときどき顔を出し、コンパの席であれこれと青臭いことを口にしながら、3ゼミで交流する機会を増やそうと考えていた私は、内田先生のアドバイスに従い、先輩や同級生と相談しながら3ゼミ総合ゼミ長を務めた。
 そして、当時は伝説のゼミ長としてその名をとどろかせていた宇佐美毅先輩の先例にならい、夏合宿において3つのゼミからそれぞれ代表者を出してシンポジウムを開催し、それを『青銅』の誌面に掲載するという試みを実現した。
 シンポジウムの準備のために、明治・大正・昭和というゼミの垣根を越えて事前の「レポーター会議」を重ね、分科会を中心にプログラムが組まれていた夏合宿の中で全員参加のシンポジウムを開催したのである。
 さらにカセットテープに録音したシンポジウムの文字起こし原稿に推敲を重ね、読みやすく書き改め、『青銅』誌上に掲載することもできた。
 研究のレベルとしては未熟なものであったかもしれないが、形にして残すことができたことは、何をやっても中途半端だった自分にとって、ささやかな達成感を得られた貴重な体験であった。ゼミ活動と言っても、飲んで騒ぐことばかりを考えていた私が、機関誌『青銅』を活用しながら明治・大正・昭和の3ゼミでの活動を盛り上げようとした1983年は、真摯にゼミに向き合おうとした忘れがたい1年として記憶されている。

 文庫本に鉛筆で書き込みをしながら何度も読み直して準備をし、「レポーター会議」を重ねて、ハサミとのりで切り貼りしながら作ったレジュメを、第1演習室(という名称だっただろうか?)の印刷製版機のドラムにセットし、くるくると回転させて印刷原紙に転写した上で印刷していた日々。
 大量の参考文献をコピーして、二つ折りにして糊付けをして重ね合わせ、手製の冊子を作っては読みふけり、積み上げていった日々。
 そんな日々の中に、主として書道科の学生によって揮毫された題字が生み出す個性的な顔立ちで、機関誌『青銅』は揺曳している。

 あれから干支が三巡し、いまやアウトプットの手段は、活版印刷術の発明によって広がって人間社会に広範な影響を及ぼした印刷媒体から、刊行直後に内田道雄先生が授業で取り上げたドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』の「リゾーム」のように、複雑に繁茂したウェブ空間を飛び交う電子情報へとシフトしつつある。
 手書きの履歴書によるアナログな就職活動は消滅寸前であり、エントリーシートだけではなく、自己PR動画をつくることさえ求められる時代だ。

 現在、文学部国文学科の国語教育学研究室にいる私にとって、文学と教育の未来はきわめて流動的なものに見えている。
 同様に、教職大学院を擁することになった東京学芸大学の教育学部において、近代文学ゼミナールの機関誌『青銅』が描く未来も、変容と再定義を避けることができないものであるのかもしれない。
 しかしながら、単位を取るための手段としての学びとは異なり、毎週ゼミに参加し、倦むことなく読み、語り、対話や議論を重ねて学び、アウトプットへと結実させる自主的な営みには、まだまだ多くの可能性が残っていると信じていたい。
 元号が令和へと変わり、ついに21世紀生まれの若者が近代ゼミに参加し始めた今、区切りとなる第50号を出すことになった『青銅』の未来が、後輩のゼミ生諸君にとっても、他では得られないようなワクワク感、ドキドキ感を得られる場であり続けることを願ってやまない。

※東京学芸大学近代文学ゼミ発行『青銅』第50集(2020年3月10日発行)掲載のエッセイをリライト。

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