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文学的肉眼と学習性無気力感

昭和文学ゼミで遭遇した戦後文学

 東京学芸大学に入学した直後に、学部1年生から大学院生までがともに学ぶ「自主ゼミ」に入った。サークルのような団体で、単位は出ない。ただ、毎週レジュメを作って本格的な発表がなされ、90分という時間制限がなかったために演習の授業よりもはるかに充実した議論が展開されていた。

 1年生のときにゼミが年間テーマとしたのは、三島由紀夫である。「太陽と鉄」を連載した雑誌『批評』の同人でもあった顧問の大久保典夫先生は、原稿執筆で忙しくゼミにはあまり顔を出さなかったが、毎週開かれていた飲み会にはときどき顔を出していた。ゼミに入ってまもなく、上級生とともに『仮面の告白』を発表することになり、泊まり込んで議論を重ね、レジュメを作成したことをぼんやりと記憶している。

 2年生のときのテーマは戦後文学だ。野間宏椎名麟三大岡昇平梅崎春生という4人の作家が取り上げられた。野間宏研究』という大著がある日本大学の薬師寺章明先生が参加したのは、「暗い絵」を取り上げた時のことだった。トイレで私の横に立った薬師寺章明が、「まあ、がんばりなさい。」みたいな感じで声をかけてくれたことを覚えている。

 今でも忘れ難いのは、椎名麟三との遭遇である。
「深夜の酒宴」「重き流れの中に」「深尾正治の手記」「永遠なる序章」とゼミに導かれながら読み進め、その世界に感化された。二十歳そこそこの私が深く納得し、共感したのは、椎名麟三の「ほんとう」をいう言葉に対する嫌悪感である。
 戦中から戦後にかけて、価値観が180度転倒する状況の中で「ほんとう」という言葉を口にする人間に対する嫌悪と、「ほんとう」という物言いに対する徹底した懐疑を口にする椎名麟三の言葉に、大げさに言うと「文学」の真髄を観た気がした。

ひとつの反措定

 ゼミ顧問の大久保典夫先生は、文芸評論家にして文学史家、ゼミに顔を出すことはあまりなかったし、3年生になるまで授業を取れなかったので、文学についてじかに教えてもらったということはあまりなかった。
 ただ、こんな言葉と出会ったのは、大久保典夫先生の導きであった。

小林多喜二火野葦平とを表裏一体と眺め得るような成熟した文学的肉眼こそ、混沌たる現在の文学界には必要なのだ。

平野謙「ひとつの反措定」(1946)

 左から右へ一気に振り切る暴力性。
 北野武に言わせれば、こういう振り幅は、暴力であると同時にユーモアでもある。
 異質に見えるものの奥にある同質性を喝破し、物事を相対化すること。
 こういうところにも文学がある、と二十歳の私は考えた。

 かつて野田市虐待死事件(冷水シャワー虐待死事件)で命を落とした少女の母親が、父親の暴力を制止できなかったということが理由で逮捕された。母親もDVの被害者であったらしく、自分に危害が及ぶことを恐れて、娘が傷つけられることを制止できなかったと言う。娘に暴力が及んでいる限り、自分は攻撃されないという考えていたというのだ。
 こういう状況に陥っていた母親について、事件発生当時のワイドショーで「学習性無気力感」という言葉が使われていた。

 他人事ではない。

 野田市虐待死事件の「加害者」である二人の男女を表裏一体のものとして眺めることはもちろん、「加害者」である二人と「わたしたち」を表裏一体のものとして眺める視座も、文学には用意されている。



            未

※2019-02-06 二十歳のころに考えた文学と学習性無気力感(あと83日)による(平成が終わるまでのつぶやき


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