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村上春樹的「やれやれ」の源流を探る―庄司薫、太宰治、夏目漱石、そして新美南吉

村上春樹と「やれやれ」

 村上春樹の文学を象徴するつぶやきは、「やれやれ」である。
 この印象的なフレーズがどのように生まれたのかを探ってみよう。

 まず、デビュー作の「風の歌を聴け」(1979年)にはその用例がない。
 そのあとの「1973年のピンボール」では、主人公がピンボールゲームの最終ステージを終える際、「やれやれ」とつぶやくシーンがある。

 それからボールをバンパーに当ててマグネットの調子を点検し、全てのレーンを通過させ、全てのターゲットを落とした。ドロップ・ターゲット、キックアウト・ホール、ロート・ターゲット……、最後にボーナス・ライトを点けてしまうとやれやれといった顔付きでボールをアウト・レーンに落としてゲームを終えた。そしてジェイに向かって何も問題はない、という具合に肯いて出ていった。

村上春樹「1973年のピンボール」1980年

 しかし、この「やれやれ」は、いまだ村上春樹的「やれやれ」の強度を持ち合わせてはいない。
 一方「羊をめぐる冒険」では、「やれやれ」が主人公の口癖として一定の強度を持つものとして定位し、現実に対する諦観やヒューモア、シニカルな拒否感を表現する手段となっている。

「やれやれ」と僕は言った。やれやれという言葉はだんだん僕の口ぐせになりつつある。
「これで一ヵ月の三分の一が終り、しかも我々はどこにも辿りついていない」

村上春樹「羊をめぐる冒険」1982年

 これ以降「やれやれ」は、作中人物の特定の感情や態度を示すツールとして印象的に用いられるようになっていく。

 評論家の加藤典洋は、こうした「やれやれ」の使い方について、「まさか」と対比しながら、優れた評論を書いている。「やれやれ」について探ることは、村上春樹文学の理解と評価に重要な役割を果たすと思われる。

近代文学のなかの「やれやれ」

 じつは村上春樹以前にも、さまざまな「やれやれ」の使用例が存在する。

「どうもいけないようだなあ。」
「うん?」
「やれやれ。」と、彼は言う。高倉健を模倣したかのような短髪を撫で、下を向いて。「もうおしまいだ何もかも、ってのはアンデルセンだったっけ?」
「え?」
「おれは孤独にもなれないってことを発見したんだよ。」
「……?」

(庄司薫「白鳥の歌なんか聞こえない」1971年)

 村上春樹への影響が語られることもある庄司薫の小説に、このような用例があるということは、なかなか興味深い事実である。

 他にもないかと考えて、インターネット図書館「青空文庫」で用例を探してみた。

 かなり多くの用例がある。

 たとえば、「道化の華」の冒頭近く。大仰に書き始めた小説の冒頭部に対して、にわかに見をひるがえし、自己否定の言葉を書きつけるくだりだ。

 夢より醒め、僕はこの數行を讀みかへし、その醜さといやらしさに、消えもいりたい思ひをする。やれやれ、大仰きはまつたり。だいいち、大庭葉藏とはなにごとであらう。酒でない、ほかのもつと強烈なものに醉ひしれつつ、僕はこの大庭葉藏に手を拍つた。予想より多くの例を見つけることができた。

太宰治「道化の華」1935年

 「吾輩は猫である」に登場する迷亭が発するこんな「やれやれ」もある。

「…もし絞罪に処せられる罪人が、万一縄の具合で死に切れぬ時は再度同様の刑罰を受くべきものだとしてありますが(中略)千七百八十六年に有名なフツ・ゼラルドと云う悪漢を絞めた事がありました。ところが妙なはずみで一度目には台から飛び降りるときに縄が切れてしまったのです。またやり直すと今度は縄が長過ぎて足が地面へ着いたのでやはり死ねなかったのです。とうとう三返目に見物人が手伝って往生さしたと云う話しです」「やれやれ」と迷亭はこんなところへくると急に元気が出る。「本当に死に損いだな」と主人まで浮かれ出す。

夏目漱石「吾輩は猫である」1906年

近代文学史上特筆すべき「やれやれ」

 村上春樹的「やれやれ」の源流として、近代文学史上特筆すべき「やれやれ」は、新美南吉の「がちょうのたんじょうび」に見られる。

 動物たちがみなでガチョウの誕生日を祝おうとする。ところが、いたちがなかなかやってこない。そして「いたち」には「よくないくせ」がある。

 「いたち」は、「おおきな はげしい おなら」をするのだ。

 来なければ来ないで平和なのだが、さすがに彼を仲間はずれにするのはよくないので、「うさぎ」が「いたち」を迎えに行く。
 そして「きょうだけは おならを しないで ください」と念を押し、一緒に連れてくる。
 「ええ、けっして しません」と「いたち」は約束し、行儀良く食事をはじめる。

 ところが、おならを我慢しすぎた「いたち」は突然気絶してしまう。

さあ、大変だ。医者がいたちの腹を診察し、「これは、いたちさんが、おならを したいのを あまり がまんして いたので こんな ことに なったのです。これを なおすには、いたちさんに おもいきり おならを させるより しかたは ありません」と宣告する。
「やれやれ」と皆は息を吹き返し、あきらめの表情を交わす。そして、「やっぱり いたちは よぶんじゃ なかった」と認識する。

新美南吉「がちょうのたんじょうび」1934年

 この「やれやれ」は、かなり強烈である。

 近代文学史における最も印象的なやれやれの一つとして、特筆大書されるべきであろう。



                  未


2008-06-09
「村上春樹的「やれやれ」の源流を探る―庄司薫,夏目漱石,横光利一,新美南吉」をリライト


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