村上春樹的「やれやれ」の源流を探る―庄司薫、太宰治、夏目漱石、そして新美南吉
村上春樹と「やれやれ」
村上春樹の文学を象徴するつぶやきは、「やれやれ」である。
この印象的なフレーズがどのように生まれたのかを探ってみよう。
まず、デビュー作の「風の歌を聴け」(1979年)にはその用例がない。
そのあとの「1973年のピンボール」では、主人公がピンボールゲームの最終ステージを終える際、「やれやれ」とつぶやくシーンがある。
しかし、この「やれやれ」は、いまだ村上春樹的「やれやれ」の強度を持ち合わせてはいない。
一方「羊をめぐる冒険」では、「やれやれ」が主人公の口癖として一定の強度を持つものとして定位し、現実に対する諦観やヒューモア、シニカルな拒否感を表現する手段となっている。
これ以降「やれやれ」は、作中人物の特定の感情や態度を示すツールとして印象的に用いられるようになっていく。
評論家の加藤典洋は、こうした「やれやれ」の使い方について、「まさか」と対比しながら、優れた評論を書いている。「やれやれ」について探ることは、村上春樹文学の理解と評価に重要な役割を果たすと思われる。
近代文学のなかの「やれやれ」
じつは村上春樹以前にも、さまざまな「やれやれ」の使用例が存在する。
村上春樹への影響が語られることもある庄司薫の小説に、このような用例があるということは、なかなか興味深い事実である。
他にもないかと考えて、インターネット図書館「青空文庫」で用例を探してみた。
かなり多くの用例がある。
たとえば、「道化の華」の冒頭近く。大仰に書き始めた小説の冒頭部に対して、にわかに見をひるがえし、自己否定の言葉を書きつけるくだりだ。
「吾輩は猫である」に登場する迷亭が発するこんな「やれやれ」もある。
近代文学史上特筆すべき「やれやれ」
村上春樹的「やれやれ」の源流として、近代文学史上特筆すべき「やれやれ」は、新美南吉の「がちょうのたんじょうび」に見られる。
動物たちがみなでガチョウの誕生日を祝おうとする。ところが、いたちがなかなかやってこない。そして「いたち」には「よくないくせ」がある。
「いたち」は、「おおきな はげしい おなら」をするのだ。
来なければ来ないで平和なのだが、さすがに彼を仲間はずれにするのはよくないので、「うさぎ」が「いたち」を迎えに行く。
そして「きょうだけは おならを しないで ください」と念を押し、一緒に連れてくる。
「ええ、けっして しません」と「いたち」は約束し、行儀良く食事をはじめる。
ところが、おならを我慢しすぎた「いたち」は突然気絶してしまう。
この「やれやれ」は、かなり強烈である。
近代文学史における最も印象的なやれやれの一つとして、特筆大書されるべきであろう。
未
2008-06-09
「村上春樹的「やれやれ」の源流を探る―庄司薫,夏目漱石,横光利一,新美南吉」をリライト
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?