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脳内議論整理 なぜ勉強するべきか


 子供の頃、「なぜ勉強するべきなのか」という問いに、納得できる答えをくれた大人はいなかった。多くの回答は、まじめに勉強をしておけばいい大学に入れるとか、いい仕事に就けるとか、最終的に安定した生活を送れるとか、「勉強という行為」がもたらす利益の話だった。「つべこべ言わずに勉強しておけば将来有利になるぞ」というのがたいていの大人たちの結論で、ひねくれた子供だった私はこれがものすごく不服だった。

 現在の世の中では、勉強の出来具合で個人の社会的価値が大きく決まる。だから勉強ができるに越したことはない、のはもちろんわかっていた。これは、個人の社会的価値を決める大きな指標において上位にいたほうが有利という簡単な理論であって、例えば、平安時代の貴族だったら字がうまく書ける方が良くて、縄文時代だったら槍をうまく投げられる方が良くて、極端にいえば、家柄がものをいう時代では位の高い家に生まれた方が良いということと同じである。「勉強ができる人になること」に価値があることはわかっていたが、ひねくれた子供だった私が知りたかったのはもっと直接的な話で、私が今学んで覚えてを繰り返しているあれこれが、「勉強という行為」ではなく「勉強そのものの内容」が、どんな価値を持つのか、いつどこでどう登場してどのように役に立つのか、みたいなことで、つまりは「なぜ『この』勉強をするべきなのか」だった。


 最近旅をして、世界が一気に広がる機会がすこし増えて、感じたことがある。学校が教えてくれる知識教養は、かなり便利だ。生きるうえで必要かと聞かれるとなんともいえないけど、私の人生においては、なんで誰も教えてくれなかったのだろうと思うほど役に立っているし、あの勉強をしておいてよかったと思うことはどんどん増えている。

 第一に、あれらのおかげでいろいろな人といろいろな話ができる。出会った誰かがヨーロッパのあの入り組んでいる小さな国々のどこか出身だったとき、あの地中海性気候の?なんて聞けるのは地理の教科書のおかげだし、言葉が通じない店でも水が買えるのは理科の授業で習ったH2Oのおかげだし、国語で暗唱させられた五七五の一つでも覚えていればジャパニーズカルチャーの話をさらに盛り上げられるし、15の2乗が225だなんて言った日には天才だと崇められるのは無論数学のテストのおかげで、オラウータンの英語発音がオランガタンだと知っていたおかげでサル好きの友達ができたりするものだ。学校で学んだあれこれの組み合わせは、私の人生において、人との出会いやコミュニケーションをものすごく豊かにしてくれている。
 さらに付け足すと、教育のツッコミどころの話は、話し相手の年齢も性別も国籍も関係なくウケる。数学のsin cos tanとか、動く点pとか、理科のNaHCO3とか、公民で覚えた歴代アメリカ大統領の名前とか、こんなのいつどこで役に立つんだよと思っていたものすべてのは、あれはなんだったのかという話をするためにあると思う。私の人生では、絶対役立たないと思ったあれら全部が、笑いのネタになるという点で不本意にも役立ってしまっている。

 第二に、学校で習った知識教養は、世界を何倍も面白い場所にしてくれる。旅先のNZで行った山脈の地形が、氷河によってできた特異的なものだと教えてくれたのは一緒に旅をしていた高校地理オタクの心友なのだが、彼女の知識のおかげで、私が見ていた景色は「ただの綺麗な山々」ではなく、「何千年も時間をかけて出来上がった大自然の産物」になって、感動が何百倍にも膨らんだ。生きていく中で遭遇する場所や状況で、学校で得た知識教養が、いわばキャプションのようなはたらきをしてくれることは相当ある。物事を知っているのと知らないのでは、世界の見え方は全然違って、キャプションが多ければ多いほど同じものをたくさんの観点から見ることができるから、極論、私は学校の勉強のおかげで生きることをより楽しめている気がする。あと、持つべきものは知識教養に富んだ心友。自分のと合わせれば軽く300万倍は世界が面白くなる。

 そして最後に、世の中には、知識教養から生まれる礼儀や優しさというものがある。わかりやすい例えだと、妊婦マークやヘルプマークを知っていれば電車で席を譲れたり、育て方を知っていれば死にかけの植物を助けてあげられたり、敬語が正しく使えれば目上の人を侮辱せずに済んだり、英語を知っていれば困っている外国人観光客に道案内ができたりする。わかりにくい例だと、私が火にかけたのを忘れていた味噌汁を沸騰する前に火からおろしてくれた友人の話とか、初対面の人に出身を聞かないようにしている友人の話とかがあるのだけど、あえてこのまま置いておこう。とにかく、学校で学んだ知識教養たちのおかげで人や物助けができることがあるし、知識教養がないってだけで人を傷つけてしまうことがあるってことだ。そして、知識教養を持っている人ほどたぶん、人の気遣いや優しさにも気づけて、人をより尊敬できて、人により感謝できるんじゃないかって、私は最近思っている。


 言い訳のように書いておくと、「なぜ勉強をするべきなのか」なんて聞きまわる子供だったが、私は決して勉強が嫌いだったわけではない。できないことができるようになったり、知らないことを知ったりするのを純粋に楽しめたから、なぜすべきなのかわからないと勉強したくないとか、そんなことは全くなかった。ただただ、後々なんの役にも立たない内容を学ぶのに私の貴重な十数年を費やすのはもったいない気がして、あなたが時間を費やして得ているその知識たちは無駄にならないよと言ってくれる誰かがいたらいいのにと思っていたと思う。こんなひねくれた子供、会えたとしても相手になんかしたくないけど、もし今の私が子どもの頃の私に会って「なぜ勉強すべきか」に答えるなら、多分こんな。

「あなたがいま学んでる内容は、将来誰かと仲良くなりたいと思ったときに武器になるよ。絶対に役に立たないだろうそれは、誰かと笑いあうネタになるよ。いろんなことを知っておくと、人に優しくできるし、人の優しさに気づくことができるよ。あなたが毎日何時間もかけて学んでいるそれらが、私の人生をものすごく豊かにしてくれているんだよ。だからね、お願いだからたくさん勉強してね。いくつになってもずっと勉強し続けてね。」

だからね私、今も勉強怠らないでね、来年も10年後もずっと勉強し続けてね。

 



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