見出し画像

「悲哀の月」 第29話

「どうしたんだ。そんなに疲れた顔をして。今日は休みじゃなかったのか」
 動揺を抑え雨宮は聞いた。
「うん、思っているよりもずっと大変でね。さすがにしんどいわ。コロナ病棟は」
 部屋に上がった里奈は手を洗いマスクを取った。すると、頬もこけたように思う。
「ということは、今日も仕事に行っていたのか」
 雨宮は聞いた。
「うん、そうなのよ。あまりにも厳しくてね。看護師は次々と辞めて行っちゃうからさ。残った人でカバーするしかないのよ」
 里奈はテーブルの脇にへたり込んだ。
「そんなに無理することないじゃないか。里奈にだって休みを取る権利があるんだから。疲れているのなら休みを取らないと。倒れてしまうぞ。今だって、フラフラなんだから」
「うん、それはわかっているんだけどね。でも、本当にしんどいよ。行く前はあんなことを言っていたけどさ」
 正面に雨宮が座ったことで彼の姿が目に入るようになり、感情が一気に溢れてきた。里奈の声は涙声に変わった。
「私達は確かに危険なところで働いているよ。でも、他の病棟や売店に買い物に行くと、来るなって言う人もいるんだよ。まるで私達は、鼻つまみ者よ。それが原因で、看護師は次々と辞めていっているの。私達は何一つ悪いことをしていないのにさ。むしろ、褒められるようなことをしているはずなのに。もしかしたら、そうじゃないのかな。それは、私が勝手に思っているだけなのかな」
 里奈は涙ながらに訴えかけた。
「間違っていないよ。里奈は褒められるようなことをしているんだよ。俺は、こんな凄いことをしている人を妻に持てて、心の底から誇りに思っているんだ。おかしいのは周りの奴らだよ。きっと自分のことを棚に上げて、目の色を変えて人を批判していい気になっているような奴なんだよ」
 雨宮は優しく言った。本来であれば煙草について触れたかったが、彼女の涙を目にしてはとても詰問することは出来なかった。
「そうだよね。私は間違っていないよね。ありがとう。そう言ってくれるのは、健介だけだよ」
 里奈は涙を流した。
「そんなことはどうでもいいよ。妻が苦しんでいるんだから。放っておけるわけないだろ。助けるのが当たり前だろ。
 でも、どうだろ。そんなに辛いのなら辞めてしまってもいいんじゃないかな。今のままじゃ、里奈が里奈じゃなくなってしまうよ。俺としては、そんな里奈は見たくないよ。里奈には、いつまでも明るく元気な里奈でいて欲しいんだ。だから、いっそ辞めてしまえばいいじゃないか。病院側だってきっと、今は看護師のことに目を向ける余裕はないんだよ。患者さんは次々と来るんだろうから」
「うん、そうだよね。考えておくわ。私としても限界は近付いているから」
 里奈は涙を拭いた。相当しんどいのだろう。以前の彼女であれば、こんな弱音を吐くことは絶対になかったはずだ。
「そうだよ。そうした方がいいよ。ストレスを溜めることが一番体に毒だから」
 雨宮は妻の内面を悟ると、優しく抱きしめてあげた。
「駄目だよ。私。コロナ病棟で働いているんだから。もしかしたら、ウィルスが付着しているかもしれないよ」
「いいよ。そんなことは」
 里奈は気を遣ったが、雨宮は気にしなかった。更に力を込めて抱きしめた。
「ありがとう。本当にありがとう。健介」
 久し振りに人の優しさに触れたことで里奈の目からは堰を切ったように涙が溢れ出した。
「私。こんなことになるなんて思っていなかった。もっと前向きになれると思っていた。私は甘かったのね。何もわかっていなかったわ」
 口では数週間前までの未熟な自分を恥じている。
「そんなことはないよ。里奈は頑張っているんだから。立派だよ」
 雨宮は優しい言葉を掛けながらも背中を優しくさすってあげた。
「ありがとう」
 里奈は涙を流しながら何度も夫への感謝の言葉を繰り返した。


この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?