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「悲哀の月」 第16話

 目に見えないコロナウィルスに人々は恐れを成していた。とにかく、どこで誰から感染するかわからないのだ。他人との接触を極力避けるようになっていた。
 だが、通勤している人はそうもいかない。駅まで行く道や駅構内、電車内など、知らない人と接する場所は多い。もしもこのどこかで感染者と何かしらの形で接触すれば感染してしまう可能性がある。人々は会社に行くだけで、死へつながるウィルスへの感染と背中合わせのリスクを背負うようになっていた。
 また、会社でも新たなルールが生まれていた。会社に入る際には必ず、検温と消毒にマスクを義務付けることとなった。その結果をしっかりと記入しなければいけない。もし怠った場合は、入室は認められない。発熱や風邪に似た症状のある人も同じだ。万が一感染者が社内で仕事をしていた場合、クラスターへと発展してしまう可能性が高いからだ。職場での仕事は、健康が確認できる人のみが行うことになった。
 雨宮の働く会社も例外ではない。万全を期していた。検温に消毒にマスクは義務づけられている。ただ、彼の働いている工場ではギターを製造している。弦楽器とは繊細だ。わずかな湿気で簡単に音色に影響が出てしまう。感染予防には換気も必要とされていたが、楽器のことも考えなければいけなかった。
「何か、どんどんヤバくなっているよな。コロナって。披露宴は延期して正解だよ。やっていたら死者が出ていたぞ」
 職場でも話題はコロナになっている。休憩中に羽鳥が口にした。
「そうですね。ここまでひどくなるとは思っていなかったので。早めに手を打って良かったですよ」
 雨宮は笑顔を見せている。披露宴の一時延期は、里奈から連絡のあった翌日に出席予定者に伝えてあった。
「そうよね。世界では、緊急事態宣言って言うのが発令されているというじゃない。あれだって、いつ日本でも発令されるかわからないんだから。今の状態じゃ」
 そこで竹田佳代たけだかよが会話に加わった。元は販売を担当していたが、製造に興味を持ち今では製造部の中心となっている。世話好きな一面があることから慕われている。
「あぁ、ニュースでやっているな。もし日本でも発令されたら、自由に外にも出られなくなるのかな」
 羽鳥は厳しい顔をした。緊急事態宣言は世界各国で発令されている。外出は基本的に禁止され、自宅にいなければいけない。国によっては、外出するには許可証が必要で、許可書なしで外出した場合は罰金刑となるらしい。
「そうなのよ。だからもしそうなったら、ここだってどうなるかわからないわよ。今だって仕事の量が落ちてきているんだから」
「確かにな」
 三人の顔は険しくなった。日本でも緊急事態宣言が発令されれば当然、仕事も規制されるだろう。海外では客商売の店は軒並み閉店を余儀なくされている。もし日本でも同じ措置が取られた場合、当然、工場も閉鎖しなければならない。そうなれば従業員は収入がなくなる。死活問題だ。
「その辺のことなんだけど、何かアイデアはないかな」
 誰もが不安を覚えていると背後から声が掛かった。振り返ると、五味が立っていた。彼にしては珍しく冴えない顔をしている。それもそのはずだ。現在の工場は厳しい状態だ。世の中はコロナの影響で楽器を求める人はほとんどいない。ネット販売もしているが、売れている物と言えばピックや弦などの小物ばかりだ。楽器や機材と言った高価な物は売れていない。高価な物となるとやはり、実際に触れてどんな音が出るか試さなければ手は出せないのだ。この上、緊急事態宣言でも発令されたら更に厳しくなることが予想される。正念場どころか、危機と言える状況だった。
「それなら、こういうのはどうですか」
 そこで雨宮が手を挙げた。
「ギターって、買ったはいいけど、初心者だとその後どうすればいいかわからないじゃないですか。だから、そういう人に対して初心者向けの動画をホームページ上で公開するんです。俺たちの方で制作して。そうすれば少しはギターに対する敷居も下がると思いますし、興味も持ってもらえると思うんですよ」
「そうか。それはいい考えだな」
 五味は頷いた。今までであれば売れれば終わりだったが、今の時代それだけでは興味を持ってもらえない。弾く楽しみを伝えることが出来れば、売り上げに繋がるかもしれない。
「なら、やってみよう。お前に任せるよ。そっちの方は」
「えっ、俺ですか」
 あっさり採用されたが担当が自分になるとは思っていなかったため、雨宮は目を丸くした。
「あぁ、そうだよ。発案者なんだから当たり前だろ。何人か回すから、やってみてくれよ」
 五味は肩を叩いてきた。
「頑張れよ」
「そうよ。結婚もしたんだし」
 二人も悪乗りする。
「………わかりましたよ。なら、やってみますよ」
 こうなったらもう後には引けない。雨宮は腹を括った。
「あぁ、頼んだぞ」
 五味は期待の眼差しを送ると去って行った。
(参ったな。どうすればいいんだろ。思いつきを口にしただけだから、明確なプランなんて一つもないのに。まさかこんなことになるなんて思っていなかったよ)
 その後はひとまず従来の仕事をこなしていたものの、頭の中では動画制作のことで埋まっていた。


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