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「悲哀の月」 第26話

 コロナ病棟は相変わらず忙しい時間が流れていた。患者の受け入れ要請は後を絶たない。加えて、今いる患者の治療にも当たらなければいけないのだ。スタッフは日々、忙殺されていた。
 だが、その中でも喜びはある。
 患者が回復し、病院を出て行く時だ。
 今まで生死の境をさまよっていた人が笑顔で病院を離れていく時は、看護師としても全ての苦労が報われる瞬間だった。
 中でも、この日はその思いが格別だった。
 重症者病棟で治療を受けていた原田はらだという男性の転院が決まったのである。彼は、コロナ病棟が立ち上がった二日後に重症者病棟に運ばれてきた患者だった。当初から意識が混濁していたため、人工呼吸器とエクモが装着された。この時、看護師の大半が初めてエクモの装着を体験した。
 だが、その甲斐もなく症状は予断を許さない状態が続いた。スタッフの間にも、最悪の結果がよぎっていたほどだ。
 しかし、原田はそこから持ち直した。投与した薬が功を奏したようだ。肺の炎症は少しずつ治まっていき、まずエクモが外された。看護師達は、ここでも初めてエクモの取り外し作業を体験した。
 彼はその後も少しずつ回復し、ついに自力での呼吸も可能になったことから人工呼吸器も外された。そして、数回受けた検査全てで陰性となり、体からウィルスが抜けたことが認められた。
 そうなると、今度はリハビリとなる。三週間、寝たきりだった体を少しずつ動かしていかなければいけない。
 ただし、この病院ではコロナ患者のリハビリ施設はないため、転院することになったわけである。
「原田さん。リハビリも頑張って下さいね。決してあきらめずに」
 原田が乗ったストレッチャーを押しながら里奈が声を掛けた。
「ありがとう」
 彼は、数日前から少しだけ話せるようになっていた。まだ長い話は出来ないが、これも大きな回復である。
「今度はあの車に乗りますからね。新しい病院へ行くまで」
 外に出ると、抜けるような青空の下、すでに救急隊が待機していた。完全防備した隊員は、ストレッチャーに気付くと近寄ってきた。
「お願いします」
 里奈は代表して隊員に頭を下げた。
「はい」
 若い隊員は頷く。すぐにストレッチャーを押しに掛かる。
「待って」
 が、その途中で原田がか細い声を発した。手も僅かに上げている。
 そこに気付き、隊員はストレッチャーを止めた。
 看護師達は顔を見合わせながら近寄っていく。
 すると原田は、彼女達がそばに来たところで手を差し出してきた。
 里奈が受け取ると、メモ帳だった。二つ折りにたたまれている。
「開けていいの」
 里奈が聞くと、原田は頷いた。
 そこでメモ帳を開けてみると、二行の分が並んでいた。

 ありがとう。
 絶対に元気になるから。

 メモ帳にはそう書き込まれていた。文字は弱々しく、のたくっていたが、はっきりと解読することは出来た。
「原田さん」
 里奈が目を上げると、原田はニッコリと笑った。
「じゃあ、行きましょうか」
 話は終わったと判断したのだろう。隊員はストレッチャーを押すと、救急車へと乗せた。そうして原田は新しい病院へと搬送されていった。
「頑張って書いたのね」
「そうね」
 看護師達は救急車が見えなくなるまで見送ると、病棟へ戻りメモを話題にしていた。おそらく、このメモを書いている時にはまだ倦怠感もあっただろう。手には力も入らなかったはずだ。それでも感謝の気持ちを伝えたいと書いてくれたのだ。看護師達は、その思いが嬉しかった。
「この手紙もあそこに貼っておこうか」
 しばらくメモを見たことで里奈が提案した。彼女の指差した場所とは、医局にあるクリップボードだ。
「そうね」
「それがいいわ」
 誰もがその考えに賛成した。
 そこで原田の書いた手紙も、クリップボードへと貼られることとなった。

 


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