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「カエシテ」 第31話

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「全く、面倒だな。あいつは」
 電話を切ると陣内は舌打ちした。その頬は赤く染まり、吐き出す息は酒臭い。既に退勤し、アルコールを嗜んでいたのだ。
「たまたまトイレにいたから良かったものの、もし違ったら最悪だったよ。本当にいい加減にしてもらいたいよな。あいつには。せっかく楽しんでいるというのに台無しじゃないかよ。全く」
 不機嫌な言葉を吐きながらトイレから出ると、薄暗い廊下を歩いていく。廊下は十メートルほどで途切れ、華やか空間に姿を変えた。中央に豪華なシャンデリアが吊され、ホールにはいくつものボックス席がある。席では、チャイナドレスに身を包んだきらびやかな女性が付き、中年や若者を相手に接客している。ホステスがチャイナドレスを着たキャバクラだ。歌舞伎町の外れにあり、陣内は足繁く通っていた。
「お帰りなさい」
 陣内が隅の席に戻ると、すぐに赤のミニのチャイナドレスを着た女がおしぼりを手渡してきた。彼女は茶髪をアップにまとめ、目が異様に大きい。すぐに上目遣いをしてくる。名前はエリという。
「どうしたんです。何か機嫌が悪いみたいですけど。お手洗いで何かありましたか」
 無言でいたため、エリが早速上目遣いで聞いてきた。
「いやな。会社で無駄に張り切る男がいるんだけどさ。いつも、やる必要のないことまでしてくるから迷惑しているんだよ。今も新潟に出張に行っているんだけどさ。わざわざ今日の取材の成果を報告してきたんだ。そんなもの、帰ってきてからすればいいのに」
 苦々しい顔で陣内はグラスの中に入っているウィスキーをあおった。空になったことで、すぐにエリがグラスに注ぐ。陣内はボトルを入れているほど、この店の常連だった。
「それは面倒ですね。今なんて、仕事はほどほどにしてプライベートの時間を重要にする人が多いのに。今時、そんな人は珍しいんじゃないですか。絶滅危惧種ですよ」
 同調しながらも会話に入り込んできたのは、黒地のチャイナドレスを着たロングヘアの女だ。細面の顔で目は細く、仕事の出来そうな顔をしている。実際、会話の方も大人びている。チャイナドレスよりもスーツの方が似合いそうな女性だ。名前は、マキという。
「そうなんだよ。本当に絶滅危惧種みたいな男でさ。完全に人選ミスだったよ。あんな奴だと知っていたら絶対に採用しなかったのに」
 アルコールが入っていることで、陣内の口からはつい本音がこぼれる。加瀨を採用した頃は丁度、ライターを探していた。何人も面接していたものの、決め手に欠ける人間ばかりだったため、頭を痛めていたのだ。そんな時に加瀨が来たわけである。彼はライター経験と共に、作家を目指していたことから試用期間を設ける形で採用した。すると、陣内でさえも驚くほど話を構成し、まるで別の物語かと錯覚させるほどの内容に仕上げてくれた。あまりに見事な構成に、陣内は採用を即決したが、徐々に仕事に対する熱量が増してきたことで、うんざりするようになっていたのだ。陣内からすれば、ライターはただ記事を書いていればいいのだ。取材に出たり、余計なことに口出ししてもらいたくはなかった。
「駄目ですよ。そんなことを人前で言ったら。今の時代はパワハラだって騒ぎ出す人もいますから。もしそうなったら、今の地位を退かなければいけなくなってしまうかもしれませんよ」
 声を潜めてマキはたしなめてきた。確かに、現在は迂闊に人の悪口を言うことは出来ない。もしも当人の耳に入れば、大騒ぎする人間もいる。特に、自意識過剰な人間であればその可能性は高い。
「大丈夫だよ。あいつは今新潟にいるわけだし、うちで働いている人間がこんなところに来るわけがないから」
 すっかりアルコールで脳が麻痺しているため、陣内の中ではすっかり警戒心が薄れているようだ。日頃会社では絶対に口にしないことを平然と言っている。
「そうですよね。第一、そんな細かいことを言っていたらつまらないですよね。せっかくこういうところに来たんですから、しんみりしないで楽しまないと。いつものように」
 暗くなったことでエリがもり立てた。普段は軽く感じるが、物怖じしない性格のため、こういう空気になった時は貴重な存在だ。
「そうだな。悪かったよ。でも、あいつの行っている新潟って、俺にとっては縁起が悪い場所なんだよ。だから、ちょっとナーバスになってな」
 グラスを手に陣内は険しい表情を見せた。
「どうして縁起が悪いの。もしかして、昔女とトラブっていたりして」
 エリはいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「そんなわけないだろ。俺はそこまで器用じゃないよ」
 さすがに陣内は笑っている。
「縁起が悪いって言うのは、昔、有り金を全て競馬につぎ込むなんてバカなことをしてしまってな。大負けしたからだよ」
「そうなの。男の人って、たまにそういうことするよね。大勝負とか言って」
「そう、そう、男のロマンとか言って。負けたら、痛手を負うのに」
 女二人は呆れている。
「まぁ、別に俺は結婚しているわけじゃないからな。有り金を失ったところで困るのは俺だけだから誰にも迷惑を掛けていないよ」
 陣内は笑いながらグラスのウィスキーを飲み干した。
「あらっ、もうなくなっちゃったよ。どうする」
 すかさずエリはグラスに注ごうとしたが、中身が空と気付き上目遣いで見せてきた。
「わかったよ。なら、新しいボトルを入れるよ」
 陣内はやけくそ気味に追加した。
「ありがとうございます。ボトル入ります」
 エリは笑顔を見せると、ホールの奥に叫んだ。
 すると、忍者のようにボーイが現れ跪いた。
 陣内は新たなボトルを注文すると早速、二人のホステスに振る舞った。
「ご馳走様です」
 二人は笑顔でグラスを掲げた。
「あぁ、飲んでくれよ。たっぷりと」
 陣内は悦に浸りながらもウィスキーを口に流し込んでいった。だが、どういうわけか、この夜はいくら飲んだところで酔いが訪れることはこなかった。代わりに、漁師町の空に広がる雲のような暗く重たい不安が、胸に広がっていた。


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