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違国日記

原作の存在は数年前から知っていて、SNSで断片的に見かけた情報から自分が好むタイプの物語っぽいなぁと思っていた。

でも漫画を読む習慣が全く無く、1巻ずつ買い集めて読んでいくことの面倒さが勝ちこの作品に触れることなく時間が過ぎていった。

それから数年後、おそらく2022年の冬くらいに一瞬漫画を趣味の一つにしようと試みた時期があり、違国日記を1巻だけ読んでみた。
思っていた通り自分の好みにあった空気感と物語で良かったのだけど、小説と違って1冊で完結しないことにやはり面倒さを感じて断念…

そんな自分にとっては今回映画としてこの作品に触れられる機会ができてありがたいという気持ちで、公開直後の土曜日に早速映画館に行ってきた。

この映画は『違国日記』という漫画作品の映像化という捉え方をすると、おそらく映画の中で描き切れないものが多すぎて物足りなさを感じるのではないかな~と思った。
作品への愛があればあるほど。
自分だったらそうだったかもなと感じた。

だから自分としては1巻だけ読んだ状態で映画を観るくらいの距離感がちょうど良かった。以前から気になっていた『違国日記』の世界の一端を映像で見せてもらった感覚。


ガッキー演じる槙生は表情や声のトーンの起伏は少ないけど、目の前で起きる一つ一つの出来事へのリアクションから彼女の人間性が感じられてなんだか興味深い人。
他者に対して過度に自分を良く見せようとしないから信じられる。
人との境界線の線引きをしっかりする所とかは慣れるまでは少しドライさを感じるかもしれないけど。


朝はこんなに明るくて人懐っこい子だったんだ。いちいち騒がしい。
そっか、15歳の女の子だもんな。
遥か遠い昔の記憶だけど自分たちもそんなもんだった。
槙生一人の生活では絶対に存在しないであろう騒がしさ。最初は面食らってしまったけど、段々と朝のことが可愛らしく感じてくる。
この騒がしさも悪くないのかもと思えてくる。



2人で一緒に過ごす日々を積み重ねてお互いに理解を深めていくのだけど、朝が槙生の内面に対して踏み込もうとした時、槙生はきっちりと線引きをして自分の感情はあくまでも自分だけのものなんだと朝に伝える。
そんな槙生の姿勢は朝の母親とは全く異なり、朝が思い描いていた"大人像"が揺さぶられるきっかけとなる。

このシーンに、自分がこの作品を好ましく感じる理由が詰まっているような気がした。
安易に同調するのではなくそれぞれの感じ方を尊重すること、"こうあるべき"に囚われないこと。
思考停止状態での同調や"〇〇の立場の人はこうあるべき"という囚われがもらたらすネガティブなものに直面する機会が最近多い気がするから。
自分自身も油断すると発動してしまいそうという危機感があるからこそ最近すごく意識していること。

「親が亡くなったら悲しみに暮れるのが普通」
「大人なら大人らしく振る舞うのが普通」
こういう一つ一つの囚われに対して疑問符をつけていき、「別にいいでしょ」の一言であしらってくれるのがこの作品なのかなと思った。
「優しい気持ちになれる作品」という評価は個人的に違和感ありなんだけど、適度に放っておいてくれる優しさはありがたいかもしれない。


あともう一つこの映画の圧倒的に好きなところは、槙生と朝と醍醐の3人の女性の連帯が描かれているところ。
笠間くんという槙生の元恋人の存在も大きいけど、女性達が描かれている時間がこの映画の多くを占めている。
餃子のシーンももちろん素晴らしくて大好きなんだけど、3人で井上陽水の歌を歌いながら歩く後ろ姿を観た時に「私はこういう映画が観たいんだ…!」と強く感じたのがなんだか突然すぎて自分でも驚いた。
これほど女性の連帯にいちいち反応してしまうのは、やっぱりそういうのが観られる作品がきっと少ないのだと思う。男性中心の社会に慣れすぎていて普段は別に意識していないからわからないけど。

映画には終わりがあるけど槙生と朝の生活は続いていく。映画の中で描かれていたのは2人の関係のまだまだ序章なんだと思う。
起承転結とか無くていいからずっと観ていたいと思った。

そうか、それなら原作を読めばいいんだ。
映画化によって違国日記の世界の一端に触れることができたおかげで、どうしようもなく原作漫画が読みたくて仕方なくなった。
(アマプラで無料で読めるので早速3巻まで読み進めている)

原作物の映画化はとても難しいと改めて感じたけど今回の自分のように映画をきっかけに原作に興味を持つ人もいるので、結果として違国日記という作品が広まっていくのであれば良いのではということで自分なりに納得。

この後自分が最後まで漫画を読み続けられるかは正直わからないけど、大切な言葉がたくさん刻まれたのは確か。

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