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マスターベーションしながら死んでいただければいい、は本当に幸せな世界なのか?

とある社会学者はこう言った。
コミュニケーションスキルを磨けない男性に対して、「マスターベーションしながら死んでいただければいい」

つまり、オスの弱者は孤独なまま死んでいけ。それが正しいヨノナカだ。
と仰った。

まあ、42歳5ヶ月を過ぎ、僕の知る限りでは僕の子どもはいない。
結婚歴はないが、それなりの恋愛経験、男女がともに暮らす経験もしてきた。

ただ、いろんなタイミングや振れなかった縁で結婚はできずにいる。
その原因にはもちろん僕の考え方や在り方も影響していて、そこは素直に「あんまり結婚に向いていないですよ」としか、現状は言えない。
それは仕方がない。

でも、それは「僕の遺伝子を残さぬまま死んでいけ」とはまた違うと思う。

そりゃあ僕だって子どもは欲しい。
育ってきた環境は結構過酷だったから、そうではない、極々ありふれた幸せの中で育ってほしいし、そのためなら僕はなんだってできる。
僕の命は僕の子供の命より軽い。
子供のためなら死んでもいい。
そう思っている。

でも、僕より頭が良く、知識も豊富で支持を僕よりを得られている人がそう言っている。

僕は、間違って生まれた人間なのか。
僕は、この世に存在することが間違いなのか。

そう思ってしまう。
どうしても。

僕の存在。
僕の遺伝子。
僕の生きていくこと。

それらは全て間違いで、正しくなく、悪いことであり、今のまま死んでいけということなのだろうか。

まあ、ヨノナカがそう仰るならそうだんだろうし、それを僕は受け入れなければならないけども。

一方、心の病も少し落ち着き、決して万全ではないが働けるようになった。
僕が働くことでほんのすこし、微々たるものだけどもヨノナカに貢献はしているつもりだ。

それを全て否定されたら。

もう、死じゃったほうがいいんだよね。
今のヨノナカもヨノナカだし、僕に割くリソースや仕事は無駄で不必要であり。
いや、野村和司さん(42歳)はヨノナカのために死んでください。

それってあんまりにも、あんまりじゃないか?

僕だって、一応は人間だ。
腹は空くし、眠くもなる。
英語力は落ちて入るが読み書きとリスニングはできるし、日本語もまあまあ自由に使える。
今日のリハビリ仕事だって、お客さんから「わからない所がわかりました、ありがとうございました」とお声を頂いた。

それでも僕は不要な人間なのか。

僕だって誰かを愛したいし、愛されたいですよ。
社会的にも性愛的にも。

でも、それは罷りならぬという、僕よりできた人が言う。

どうすればいいのだろうか。

例えば今、首を吊って死ぬとしよう。

まだ生きている母は間違いなく悲しむだろうし、仲は良くないが妹だってショックは受けるだろう。
それに数は少ないが、僕にだって友達はいる。
みんな長い付き合いで、僕のしょーもないところを受け入れてくれている。
ちょっとくらいは悲しんでくれるだろう。
希望的観測かもしれないが。

いや、おめーのことなんか知らんし、私にとって野村和司の命は相対的に軽い。
それはそれで当たり前だ。
ヨノナカなんぞ、そんなもんだ。
僕だって見ず知らずの人の命に過敏に反応していたら生きてはいけないし。

でも、マスをかいて死ね。

これは心に重く大きく、痛みを伴って響く。

僕は不要なのか、と。

どうなんでしょうかね。
僕は必要なんですか?
僕は不要なんですか?
僕は生きていていいんですか?
僕は死ぬべきなんですか?

そういうことを頭の中でぐるぐる回る。

悔しい。

悔しいから、とりあえず明日も生きてみる。

殺されたら、殺されたで仕方ないけども。