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私を傷つけた誰かを、私ではない誰かが傷つけた。

アカデミー賞でMCであるクリスロックにウィルスミスが平手打ちをした件であるが、ずっと考えている。


事象としては、先日のアカデミー賞で、ドキュメンタリー部門の発表を務めるMCクリスロックが、ウィルの妻であるジェイダスミスの脱毛症をMCが揶揄した。(坊主頭でいるので、次の映画の役作り、楽しみですといったニュアンス)。それに、旦那であるウィルスミスが憤怒し壇上に上がり、MCを平手打ちし、その後も「妻の名前を口にするな」と複数回叫ぶ。
ということである。
この件の物事のナラティブ(語り)が、旦那のウィルスミスを主語もしくは、揶揄したクリスロックの視点で描かれるものが異常に多い。非常に不思議、不思議というか、腑に落ちない。だって揶揄されたのは、ジェイダスミスだ。


なのに「妻」としか書いていなかったりする。
脱毛症のことを揶揄されたのは、間違いなくジェイダスミスなのに。


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小学生の時に、いじめに遭っていた。少しふくよかだったのもあるが、豚と呼ばれた。話すと、ブヒブヒ、と笑われたりした。
今思うと、そんなことは、本棚の上にたまる埃のような、人差し指で舐めるように払ってしまえるようなものだが、その時の私にとっては、それこそ、平手打ちをしたところでびくりともしない、本棚のような重いものだった。
経緯を覚えていないが、私をいじめている件が明るみになり、先生がいじめっ子がぶちぎれたことがある。ほんと、血相を変えるってこういうことなのだと、思うほどにキレた。女性の先生。佐賀先生、だっただろうか。いじめっ子は自分の椅子と机の間から、抜け出せなくなったみたいに動けなくなって、ただ立ち尽くして泣いた。それを横で見ていた。


それをみながら
「なんか、いじめられて、こんな雰囲気にまでさせて、悪いことした」


と、なんかわからないが、スッキリしないことに驚いた。
重い何かが壊れたところで、重さは変わらない。散らばるだけだ。
重い何かが嫌なら、消すしかないが、消すなら消すで、エネルギーが必要だ。どんど焼きのような、大きな火くらい。それはそれで大変で、ある程度重さになれていくしかない。
というのを考えるのは、当時の私からすると、ずっと先で、今の私からすると、ほんと最近の話だ。


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私はあの日アカデミー賞のセレモニーに参加していた。旦那が、主演男優賞にノミネートしていた。ドキュメンタリー部門のMCを務める、クリスはプライベートでも交流があるが、その時、結構急に、脱毛症のことを揶揄されて驚いた。驚いた、というか、怒った、なのかわからないが、そんなことを考える間に、旦那であるウィルが壇上に上がっていて、何をするのかと思ったらクリスを平手打ちした。


私ではない誰かが、私を傷つけた誰かを、傷つけた。


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怒れなかったので、怒ってくれた先生に感謝をしている。
それはそうだ。ありがとう、怒ってくれて。
でも、解決しているのかはわからなかった。


「なんか言いたいことある?」


それだけでよかったのかもしれない。
それだけあれば、声が上げられなかったとしても
声帯が確かにあることを、確認できたのかもしれない。
声帯がないのかもしれないと思ってしまうのが
声がもう、出ないのかもしれないと思わせられるのが
豚と呼ばれることの、一番怖いことだったのかもしれない。


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といった具合に、遠い国の舞台の上で、誰かが誰かを平手打ちしたことを、考えている。

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