現代のスポーツファンは往々にして「感情論」に流され過ぎ、「理不尽」を徹底的に排除したがっているのでは? という話

きのうの大相撲秋場所の一幕です。

結びの一番、大関琴櫻対翔猿の取組で「誤審騒ぎ」がありました。
上記リンク(日刊スポーツの記事)のサムネイルがまさにその瞬間を撮影したものですが、動画も紹介しておきます。

日刊スポーツの記事のサムネイルだけでも判断できますが、流れを通して見ると、より「この勝負は翔猿有利では?」と相撲を特に見ない人でもお思いになるのではないでしょうか。
しかし、行司の38代木村庄之助は琴櫻に軍配を上げ、勝負審判も物言いを付けず。そのまま翔猿の勝利が確定し、以降SNSではああだこうだ言われている…………という話です。

色々言われる要素が多い今回の件なんですが、先に審判部の見解を示しておきます。

個人的には「内容は理解できるから、それを物言いつけて言わんかい!」と思うんですが、ともかく審判部の見解はこう。これは東京スポーツが仕事してくれています。
ここまで話した上で、本題に入ります。


人間、誰しも感情論は排除できないもの。しかし…………。

さわりが大相撲なのでまずそこから話を進めますが、今でこそ大相撲はだいたい「スポーツ」の枠に収まるとは言え、近代スポーツの成立過程と大相撲の辿った歴史を見ると、「互いに相容れない要素」というのが少なからず存在します。
今回の件で特に強く結びつくのは審判です。審判は他のスポーツの多くでは絶対的な権力を与え、その裁定に異議を唱えることは相応の制裁を覚悟しなければいけません。それでも人間が務めるものですから誤審も起こり得ますが、近年はビデオ判定(サッカーでいうVAR、野球でいうチャレンジ・リクエストなど)を導入し、発達させて「ジャッジの公平性を担保」しようとしています。
大相撲で審判に相当する役職は行司ですが、行司は他スポーツの審判と違い、あくまで「進行役」の意味合いが強いポジションです。職分の中で土俵上の一番を裁き勝敗を決定し、勝ち名乗りを上げるのが見せ場ではありますが、あくまでそれだけ。大相撲では際どい勝負となった時に物言いのシステムがありますが、その物言いを経て勝負を決するのに行司に権限はありません。行司は取組中の反則の有無(髷掴みなど)は審査しませんし、同体の判定は出来ず必ずどちらかに軍配を上げます。
そして近代スポーツと大相撲の比較として決定的に違うのは、大相撲の行司は「格が最優先される」ということ。行司の最高位である立行司は長年行司を務め上げないと昇進できず、現在の立行司である38代木村庄之助は今場所で65歳の停年を迎えます。立行司は結びの一番、複数人いれば最後の何番かを人数分裁きますが、だいたい「最後の何番か」は横綱や大関の取組です。
肉体的にはとうにピークを過ぎている60代中盤の人が、その競技の最高レベルの試合をジャッジする。これは近代スポーツの審判にはまず当てはめられない、あり得ない構図です。
(他にも言及しようと思えばいくらでも興味深い話は出来ますが、本題から逸れるので今回は割愛します)

しかし、誤審とまで言われるに至った背景・過程はともかく、勝負結果は琴櫻の勝ち。これはもう動かせません。ただ近代スポーツの流れを受けて「公平性を何よりも求めたがるファン」が、翔猿への同情なのか行司・勝負審判への批判なのかあてつけなのか、声高に誤審だ誤審だと言うのは個人的には結構抵抗があります。

いやね、ぼくだって「あれは翔猿有利だろう」とは思っているんですよ。
でもプロの目はそう判断しなかった。庄之助の裁定はともかく、その場で勝負審判は物言いを付けず、のちの取材記事でその根拠は示した。
繰り返しますが「その根拠を物言いつけてその場で言わんかい」とは思うけど、でもそれがプロの判断なら、一ファンでしかない自分が異を唱えたところで…………とは思うんです(そもそも今回の件に限らず、ぼくはあまり誤審では怒りまでしないのもある)。

だから今回の件は、ぼくの中では東スポの記事が出たところで終わり。Q.E.D.です。
でも多くの相撲ファンは、そんなので納得はしません。現にしていません。「どう見たって誤審だ(と思っている)し、それを現場が認めていないから」。ついでに言うと、「だって普段からやらかしている庄之助と勝負審判がまたやらかしたんだから」。

スポーツとはとかく見ている人の感情をも動かすものなので、スポーツを論じるのに感情論を排除するのは土台無理な話です。
多少露悪的ではあるけど、スポーツ、特に興行であるプロスポーツは「観客の感情を揺さぶりまくってナンボ」な節はあるでしょう。感情が生まれるからこそ会場のボルテージが上がるわけだし、結果生まれる「非日常体験」を求めて観客は会場へ足を運び、それが叶わなくともテレビやインターネットで視聴するわけですからね。
だから、スポーツを見るのに語るのに、「感情論を排除しろ」なんて言動は本来ナンセンスだとぼくは思っています。

が、ジャッジに関してはむしろ感情論を出してしまうと収拾がつかなくなるとも思っていて、「公平性の担保」を求めるならなおさら。「感情」と「公平性」は、往々にして相性が悪いのもありますが。
今回の件だと、「誤審だと思う根拠」はそれぞれ挙げていい。ただ誤審だろうと結果が確定した以上、それを覆すことは原則としてない。追及して今後誤審だと騒がれるようなケースがないように求めるのはファンの権利として保障されているけども、それが現場に届くとは限らないし、最終的には折り合いをつけて受け入れないといけないでしょう。

後述しますが、それは往々にして理不尽を受け入れることとイコールです。
当事者の一方である翔猿に外野から安易に「受け入れろ」と強弁したら、ぶっちゃけ殴られても文句は言えない。当然翔猿はそんなことをする人ではないでしょうけどね。

スポーツの世界で度々起こる「理不尽」は、これまた排除できるものでもない。

誤審は選手人生を左右します。
先日色々話題になったオリンピックの柔道でも、例えば2000年シドニーオリンピックの100kg超級決勝で篠原信一が誤審の煽りを食い、結果敗れて銀メダルに終わったことがありました(この試合は、のちに国際柔道連盟が誤審と認めている)。

野球だとパッと思いつくのは、2006年の第1回ワールド・ベースボール・クラシックの第2ラウンド、アメリカ対日本。この時(主に)日本のファンから標的にされたのはボブ・デービッドソンで、タッチアップを試みた三塁ランナー西岡剛の離塁が早いと判断してデービッドソンがアウトを宣告して物議を醸しました。付け加えるとデービッドソンはその後のメキシコ対アメリカ戦でも誤審騒ぎを起こした例がありました(不利な判定となったメキシコがこれで奮起してアメリカに勝ち、それが日本の優勝に繋がったのだから運命とは因果なものだなと思う)。

上記の3例はすべて「理不尽と取られるのも自然」ではあるし、現に篠原に関しては正式に「誤審」と認められてはいますが、それで結果が変更されたわけではない
誤審と認められても、篠原の銀メダルが金メダルに変更されてはいません。
WBCの2件にしても日本が優勝してメキシコもその試合に勝ったから2チームの美談にはなり得ても、試合そのものやピンポイントな打席結果が覆ったわけではありません。

これに関しては、「一度その場で出た結果を、不備があったからとてのちに覆すのはコストが膨大にかかってしまう」ような話があると思います。
それは審判の威厳とかいう話ではなくて、「結果を修正したあとにどうするのか?」というコスト。導入の話題にした大相撲の一番なら同体ということにして取り直しをすればいいですが(それ自体はそんなに時間がかからない)、特に野球のようなチームスポーツ、ある程度の時間を要するでそんなことしたら時間も人員も枯渇します。
そしてこの手の話で抑えたいのは、仮に正当性があったとしても「後から結果の変更を認めると、恣意性を大いに疑われる余地を与えてしまう」のが最大の問題だと言うことです。最初は誤審の訂正として良かれと思っていても、そのうちなし崩し的に結果の変更が出来るようになってしまえば、そちらのほうがより理不尽ですからね。

ただスポーツというものは、これらの理不尽を飲み込んだ上で見ないといけないでしょう。
当事者は生活がかかっているので、その彼ら彼女らに対して「受け入れろ」という話ではないです。チームスポーツであれば突然同ポジションに強力なライバルが現れてレギュラーを掻っ攫われるとか、そういうのも「理不尽」と言うことは出来るけども、でもそれは自分の実力にも起因する話。そんなものまで排除しようとしたら、環境としては途端に不健全になります。
耳にタコができるほど文中「理不尽」と書いていますが、スポーツなんてものは理不尽の塊なんですよ。世の中平等ではない中で、体格、身体能力、センス、運など様々な不確定要素が支配するスポーツで、理不尽を須らく排除しようとするのは絶対無理。是正する方向には持って行けるけど、完全には無くせない。
野球で言うなら、みんながみんな160キロのストレートを投げられるわけでもない。ホームランを打てる選手ばかりでもない。いい当たりの打球がことごとく野手の正面を突く時もあれば、たまたま野手のいないところに落ちることもある。それら全部を一方の立場からでも理不尽とか不平等とか言いますか?

世の中全体で見れば、「理不尽」は排除したほうがいいです。でも全てを排除できるわけではない。
別の言葉を使うなら、「平等」は目指せても全ての「不平等」を排除できるわけではない。それは生物学的な話にしても、社会学的な話にしてもそう。
でも受け入れないと先に進めないなら、それは飲み込まないとしょうがない。前に進めない。
スポーツにおいては当事者ならともかく、ファンが理不尽を感じて憤慨するのを止めることは出来ないしぼくはしないですけど、それをグチグチ言ったところで「当事者じゃないんだから最終的には自分の損害にはならんだろう」と。無理に楽しめとは言いませんが、折り合いのつけどころをどこかで持っていかないと、いずれ自分が大事なものを失うことになりますよ。ハッキリと、「趣味だからこそ」。

それでも世の中全体で「誹謗中傷対策がしきりに叫ばれる現状」を、ひとりひとりが考えないと先には進めない。

本当に最近、スポーツ界ではよく聞く話です。
それこそ直近のパリオリンピックで、柔道の阿部詩の初戦敗退後の振る舞いに膨大な量の意見が(時には誹謗中傷やそれに類する言動もあったでしょう)見られました。
思うことを口に出すのは、それが何であれ誰かが止められるものではないんです。でもリアルで、記録に残らないような場でグチグチ言う分には止める意味もないんですが、記録に残りともすれば本人の目にも付くSNSの場で年を追うごとにヒートアップしている現状は、現場の選手(場合によっては指導者にも審判にも)にはかなり酷です。

最近流れて来たニュースを引用しましょう。

プロスポーツ選手が、結果を出せなくて批判されるのは仕方がない。それを制限しようとは、ぼくは露ほども思いません。
しかし山﨑が文中で言及しているように、スポーツ選手も(指導者も審判も)生身の人間です。誹謗中傷を加える人達と同じ、生身の人間

このnoteではぼくも折に触れて言及していると思いますが、「批判」はしてもいいんですよ。
その批判と誹謗中傷のボーダーラインはとかく曖昧で、線引きは出来ないという難しい点はあります。選手・指導者・審判などの当事者は時に批判を受け入れなければいけないケースもありますが、そこに誹謗中傷は断じて含まれない。SNSで言うなら、ファンの立場だと「批判すら見たくない」もそれは正当な主張になり得ます。
また受け取った側が「誹謗中傷」とみなしても、客観的に見れば「正当な批判で誹謗中傷にはあたらないケース」も多分にあるとは思うんです。そのジャッジは誰か特定のひとりが行うものではなく、例えば世論の動向によるでしょう。

これらを踏まえた上で、じゃあ「誹謗中傷を無くそう!」と無邪気に言えるかと言われたら、ぼくは口が裂けても言えません。仮にぼくが独裁者になったとしても、そんなのは無理です。事後に制裁を科すことは出来ても、最初から口止めすることなどは出来ません。古今東西、歴史が証明していることでもあります。

それでも「減らそう」とすることは出来て、ではそのために自分は何が出来るか、と言われたらこういう草の根レベルの啓蒙活動になります。んまあやくたいもなく言ってしまうと、さんざっぱら言っても直らないような人はそもそもこんな記事を読まないでしょう。辿り着きもしないと思う。

ただ、じゃあですよ。
ちょっと顔じゃない話をするとしてですね。

「完璧な人間」などいないのは分かる。
分かるけど、「向上心を持ってより高みを目指す」ことはやろうと思えば出来るわけじゃないですか。まあこれもあまり突き詰めすぎると簡単にメンタル壊れるんですけど。
誹謗中傷を最初はストレスのはけ口だったのかも知れないけど、結果としてずっと加えている人は「その人がなりたかった自分なのか?」とたまにお節介ながら思う時がある。

繰り返すけど、完璧な人間はいません。時には悪口を言うこともあるでしょう。
最初からミスをするなとは言わない。ぼくだって散々やって来ました。直近でもこの手の話が遠因となって、真面目に自死を考えていたこともあります。
でも後でそれを恥じ、意識をするだけでも出来るかどうかは「人間として」大事なこと。当然意識すればすぐに克服できるわけでもないんですけど、その積み重ねは1年、5年、10年と時間が経つにつれて大きな差になっていくと思うんですよね。
「心が変われば行動が変わる」に始まる有名な一節があり、個人的にはあまり好きな言い回しではないけど、「『1.1×1.1×1.1×…………』を選ぶのか『0.9×0.9×0.9×…………』を選ぶのか」という話もある。

人間誰しもミスはある、そのせいで他人に迷惑をかけることもある。
そのミスをどう捉えるか、自省できるか、そして次に生かせるか。スポーツ選手ならそれこそ練習やシミュレーションでとなりますが、似たようなテンプレートは一般社会にも適用できるはずです。

誹謗中傷に話を戻すと、結局その声が無視できないほど大きくなったから対策を練らざるを得ない。
根絶するのは非常に厳しいけども、その原因が自分たちにあるかも知れないことを自覚しない限りそれにリソースを消費し、スポーツ界に留まらず他業界にも、果ては国全体、世界全体へ悪影響をもたらすことを自覚すること。
SNS全盛の時代においては、もはやマストとまで言える
のではないでしょうか。

「誹謗中傷を加えた人間に必罰を」とまでは言わないですが(それはそれで現実的に難しいので)、誹謗中傷を加え続ける彼ら彼女らが摘み取ったものは既にもう小さくない。
もしこの記事をここまでお読みになってくださって、思うところがそれぞれにあるのなら。別に自責思考になることはありません。少し立ち止まって、考えを巡らせてくれるのなら書いた甲斐があったのかなと思います。

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