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顔の善し悪し

 最近、顔が悪くなってきた気がする。もともと大した顔ではないので、僕が感じたのは良し悪しの悪さというよりは、善悪の悪さだ。ちょっと前までは刑事ドラマでいうところの「外面や立ち振る舞いは善人のようだが胡散臭さは拭えず、終盤になってやっぱり裏で悪事を働いていたことが露見し、豹変するやつ」風の顔をしていたが、最近は「あからさまな悪人顔をしているため逆に犯人ではないと思われており、やっぱり真犯人は別にいるのは分かったんだけど、こいつはこいつでしょぼい悪事はやらかしていたやつ」風の顔になってしまった。両者とも結局は犯罪者なのでどっちもどっちなのだが、どうせなら少しでも善い人に見える瞬間がある前者のままでいたかったな。

 自身の顔の変化は、十中八九加齢によるものだろう。まだ(?)22歳の大学生だけれど、顔つきに確かなおっさんの足取りを感じる。塾講師のアルバイトをしているのだが、小学6年生の生徒に30代の子持ちだと思われていたことがあり、そのときは本気でショックだった。自分の顔がどうもしっくり来ていないのは、顔を含めた身体の年齢と、自分の精神年齢が釣り合っていないからだと思う。何もない夜道を一人で歩いたりしているとき、普段目を逸らしていた自分が成年であるという事実をうっかり直視してしまって、衝動的に叫びだしたくなるときがある。人間が肉体精神ともに大人になれるのって、いったいいつなんだろう。少なくとも20歳ではないでしょ。成人って自己申告制にならないかな。そんで申告するまでは、親の脛をかじることを法的に許可して欲しいよね。頼むぞニッポン。



 自分の顔についてこれ以上考えても広がりがないので、顔つながりで整形について考えてみようと思う。近年、整形手術というのは想像以上に手軽に受けられるっぽいし、整形を公表している有名人もいるみたい。でも未だに僕は、整形には反対派の人間だ(どっちかというとだけど)。1度整形をしてしまっては、2度と元の顔に戻ることは出来ない、その取り返しのつかなさを恐しく思っているのが最大の理由である。これは整形だけじゃなく、いろんなことにも言えて、たとえば、絵具で描く絵。小学校高学年の頃、図工の時間で校舎の絵を絵具で描くという課題で、これじゃ駄目だ、もっと良くしなきゃ、と絵に色を重ねるうちに、どんどん酷い出来になってきて、最終的に教室に貼り出された自分の絵を見て恥ずかしくなりながら「あそこで止めておけば……」と激しく後悔したことを覚えている。どうやら僕は、整形を含め不可逆的なものを苦手としているらしい。すなわち、現在の自分が正しいと思っていることが不変であると、そう信じることができなくなっているのだ。そういえば、不可逆なもので代表的なのは時間、すなわち人生だけど、僕は人生も苦手ってことなのかな。だとしたら困りますね。




 ……さて、今から僕は、1人で脳内に「整形賛成派俺」と「整形反対派俺」の2人の人格を生み出し、その2人を議論させてみることにする。なぜその2人を議論させるかというと、僕個人は整形反対派ではあるものの、反対意見ばっかり考えて賛成派の思想を蔑ろにしてしまうのは良くないし、どっちかに偏ってしまうと想像力が貧弱になってしまいそうな気がするので、双方の立場に立って自分の考えを深めてみようと思ったからだ。そしてなぜ1人で脳内でやるのかというと、友達がいないからだ。哀しいね。最初に断っておきますけど、僕は大して整形に詳しいわけでもないし、脳内議論なのでどうしても主観が混じってしまうこともあると思います。ごめんなさい。でも頑張って書いたんで、そこは評価して欲しいんですよね。だめでしょうか。




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整形反対派俺(以下、)「……まず、整形を否定するありがちな考えとして、『親からもらった顔にメスを入れるのはいかがなものか』というものがある。これは倫理的には割と理解できる考えではあるけれど、論理的かどうかは一考の余地があるな」

整形賛成派俺(以下、)「親の存在を蔑ろにするわけではないけれど、自分の体はあくまで自分のものですからね。自分のものを自分の好きにいじったって、別にいいんじゃないですか」

「ただ、そのいじる動機というのは、純粋に自分から出てきたものじゃないだろう。外見は自分では見えない、すなわち外見をいじる理由は外部にあると言えるんじゃないか。だとしたら、"自分の好き"にと言いつつも、それは"他人の好き"に委ねられてしまっているのでは?」

「それになにか問題が? 人間が集団に属する動物である以上、個人の価値観が他者に影響されるのは当然のことでしょう。好きな人に嫌われることで、自分も自分を嫌いになってしまうという話は珍しくもない。反対に、好きな人に好かれることで、自分も自分を好きになることができる。それはとても素晴らしいことではありませんか」

「好きな人がずっと変わらない、ずっと傍にいてくれるという保証はないじゃないか。もしそんな人がいるとしたら、その確率が最も高いのはまさに親ではないのか? 好きな人に好かれるのが幸せならば、整形せず親からもらった顔のままでいるのが1番いいんじゃないか。もちろん、全ての親子が仲がいいなんてことは言わないけれど」

「だとしたら、好きな人に合わせて自分の顔を変えていけばいいんですよ。あと親の話ですが、そもそも親だったら多少外見が変わろうと子供を愛する気持ちは変わらないはずです。整形否定派の方こそ、人間の内面を軽んじているんじゃありません?」

「親だったら外見が変わろうと愛する気持ちは変わらない、それを認めてしまっては、外見が変わったとしても他人に好かれるとは限らない、ということも認めることになる気がする。それは整形の意義を大きく否定してしまっているのでは?」

「赤の他人と親をいっしょくたにしてはいけませんよ。自分への好感度を0~100で表すとすると、整形してない場合、親からの好感度100、他人からの好感度50だとしたら、整形した場合親からの好感度90、他人からの好感度70になるみたいなイメージです。整形した方が全体の好感度の総量は高いでしょ? しかも親の人数は固定ですが、他者の人数は出会った分増えていきますから、その差はどんどん広がります」

「その数字は分からんけれど、論理は分からないではないな。なら、好きな人に合わせて顔を変え続ければいいという意見に対して反論だ。至極当然な話だけど、整形すればするほど、金がかかってしまう」

「幸福を金で買えるならよくないですか?」

「確かに、幸せを金で買うのは全然ありなのだけど、その金と幸せが釣り合うとは限らないのが問題なんだ。アイドルみたいな外見で食っていく職業に就くならば、払った分を回収できるかもしれない。でも普通に生きている限り、整形して手に入る見返りは小さくはないだろうが、満足できるほど大きくもないはず。そして見返りに満足できないからこそ、さらに整形を重ねていって、出費と見返りのバランスはどんどん崩壊していってしまう。それはトータルで不幸と言っていいんじゃないか?」

「整形に限らず、確実に幸福になれる商品なんてそうそうあるとは思えませんがね。じゃあ、プチ整形とかはどうなんですか。そんなにお金はかからないみたいですよ」

「それこそ、プチ整形で手に入る幸福と、しないで手に入る幸福が、劇的に変化するのか? そこに疑問を覚えてしまうな。むしろ整形することに対しての抵抗が薄れていって、さっき言及した整形の負のサイクルに巻き込まれていってしまうんじゃなかろうか」

「……そもそも、否定派が唱えている幸福論に疑問がありますね。整形した瞬間はプラスでも、のちのちのことを考えたらマイナスになる、みたいな話をしてますけど、整形せずになだらかな人生を生きて、整形した起伏ある人生より幸福の総量が多いという保証はあるんですか? 少なくとも明日世界が滅びるとしたら、間違いなく整形した人の人生の方が幸福でしょう。後先ばっかり考えてみみっちく生きてんじゃねえ! 現在を生きろよ、現在を!!!」

「……主張が精神論めいてきたら、議論の終焉も近い気がするな。確かに明日死ぬとしたら整形した方が得だろうけど、日本の人間の平均寿命を考慮すれば、長生きすることを意識して生きる方が幸福の期待値は上だと思うけどな」




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 ……こうやって議論を進めてみると、否定派の方がやや優勢に見えるだろうか? でも否定派は基本的に相手の主張を退けてばかりで自分の主張がないこと、「整形のデメリット」ばかり言及して「顔を変えることのデメリット」に触れられていないことは、大きな欠点だと思う。たとえば「整形が非常に安価になり、さらには不可逆でもなくなった時代」という、さほどたとえばじゃないような時代を想定したとき、すなわち議論が「整形の是非」ではなく「顔を変えることの是非」になったとき、否定派の意見の大半が意味を失くしてしまい、最終的に「なんか嫌なので、嫌です」という理屈もへったくれもない小学生の結論に辿り着いちゃうんじゃないか。僕もそういう時代を迎えたとき、それでも整形に反対するちゃんとした理由を、少なくとも現段階では持ち合わせていない。なんというか、「最初に選んだポケモンをエースにして殿堂入りしたくない?」くらいの、すごい感覚的な理由になっちゃう。まあ別にそれは否定されるものでもない気がするが、代わりに他者の意見を否定できる武器にもならない。まあ相手の意見をねじ伏せることだけを目的とした議論なんて生産性のないゴミカスなのでいいんだけども。



 まあでもどんな議論であろうと、最終的に行きつく結果は同じになるようにも思えてきたな。突き詰めていくと人間の主張は結局、快か不快かのきわめて原始的なものになってしまうんじゃなかろうか。だとしたら、議論なんてかっこつけるためにやるもんなので、その領域に辿り着く前の8割くらいの深さでさっさと引き返した方が賢明なのかもしれない。でも、脳内議論やるの、けっこう面白いですよ。論破しちゃって相手との仲が拗れてしまう心配もないし、相手に論破されて悔しい思いをすることもない。だって敵も味方も俺だから。どうですか、みなさんもやってみたくなりませんか? なりませんか。そうですか。  







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