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サイコホラーとしての魅力について(映画『寝ても覚めても』)

『ドライブ・マイ・カー』に衝撃を受けた。淡々とした展開のようでいて、登場人物の心の機微がヒシヒシと伝わってくる感じ。まるでドキュメンタリーのような演者の自然さに、あっとういまに時間が経つ。終盤では、結局のところ気持ちを理解できていなかったと突き放されるリアル。他の映画で体験したことがなかったのだ。同時期に上映していた『偶然と想像』も同じ。ぼくはきっと濱口竜介監督の作品に惚れてしまった。
他にも観れるものはないかと配信サイトを探し、見つけたのが『寝ても覚めても』だった。だから、当初は東出昌大と唐田えりかの問題作とも知らず。しかし観終わった今は、二人のスキャンダルについて納得感を覚えている。


この映画は、「怖い」。
はじめ、「突拍子もないけど、ヒリヒリしていてるな」くらいだった。しかし途中から、唐田えりかの演じ方に奇妙な違和感を持つようになる。「演技が下手」という評価も散見されたがそういう次元ではなく、また「メンヘラキャラだから不快」とかそういう話ではなく、「ナマ」な感じとでもいうのか、鬼気迫る感じとでもいうのか、そういう異常さが怖かった。

「怖さ」の原因は他にもある。東出昌大の存在感だ。大河ドラマ『花燃ゆ』の久坂玄瑞役での印象が強い東出昌大は、僕の中では、ひたすらに真っ直ぐで控えめな雰囲気と主張が強いというギャップを魅力に持っている俳優だ。それが、この作品では「薄すぎる」。二人一役で出ている中で、麦の時も亮平の時も、確かにそこにいて喋っているのに、なぜか意思を感じられない。存在感があるのに薄いことに妙な感覚を抱いた。


他のブログでは、僕のこの違和感についてしっかりと考察がなされていた。例えば、「麦、既に死んでいる説」や「麦と亮平がドッペルゲンガー説(亮平が死んでしまう説)」、 「そもそもどちらかが朝子の見ている夢、説」。なるほどと思うと同時に背筋が凍った。参考にさせて頂いた記事を貼っておく。


「怖さ」は最後まで続く。
物語がエスカレートしていく段階に至っては、表現方法もぶっ壊れ始める。瀬戸康史、山下リオ、伊藤沙莉らの出番が多くハイレベルな演技をしている間は恋愛映画として見れなくもなかったが、彼らが消えてからは完璧なサイコホラーになった。

極め付けはtofubeatsの劇中歌だ。『netemo sametemo』という劇中曲がことあるごとに流れるのだが、これが、終わりに近づくにつれて不穏さを助長する。軽快な不協和音。まさにこの映画を体現する音である。


最後に、この「怖さ」の正体は、濱口監督の演じさせ方にある。
『ドライブ・マイ・カー』の劇中で実践していたように、台本の輪読を何度も繰り返すらしい。そうするうちに、自然な形で物語の中の人物になれるというのだ。主演の二人はこの憑依が飛び抜けていたように思う。そしてその結果、現実との区別がつかなくなったとしたら、怖さと同時に納得もしてしまう。

最後まで読んでくださいましてありがとうございます! 一度きりの人生をともに楽しみましょう!