向かい風に立ち続けて ―1950年代の高校演劇、岡野奈保美「向い風」再読―
0.はじめに
岡野奈保美作「向い風」は、1954年頃の福島県の炭坑街を舞台とした作品であり、執筆当時、作者は福島県のある女子高校の生徒だった。1954年と言えば、2022年の今から言えば68年前に当たる。高校演劇に関する話題は、どうしてもその時々のコンクールや上演を巡って交わされることが多く、約70年も前の作品について言及することは、当時を知る関係者のものでない限り、決して一般的な振る舞いとは言えない(1)。
では、なぜ今「向い風」か。それを読み直すことに、一体どんな意味があるのか。そのことを明らかにするのが本稿の目的である。以下に順に私の考える4つの意味(意義)を示して行くが、まず言えることは、決してただの懐古趣味が動機ではない、ということである。私にとって「向い風」は端的に畏怖の対象としてあり、それを読むことは今なお、困難の上に困難を重ねるような経験であり続けており、果たしてこの感覚を伝えられるのかどうか甚だ心許ない。だが、この驚嘆すべき傑作と向き合うことを抜きにして、現代という狂気の時代を生き抜く術を知ることも、また、高校演劇の真の意味での「未来」を見据えることも、私には可能であると思えなかった。
1.高校演劇史上における意味
「向い風」が一躍全国で有名になったのは、1956年、早川書房から刊行された『学生演劇戯曲集Ⅳ』に、いわゆる「生徒創作」として初めて収録されたことがきっかけである(ただし同書には福島女子高等学校演劇部作「ぜにごけ」も同時に収められている)。『学生演劇戯曲集Ⅳ』の「はしがき」には、同書を編纂した雑誌「悲劇喜劇」編集部の筆で次のようにある。
現在の高校演劇のあり方からは意外であるが、高校演劇の草創期には「創作」と言えば(当時は「教官」と呼ばれていた)顧問によるものであり、生徒創作は皆無に近い状態であったことが、ここから分かる。そのような時代に、福島県の一高校生の書いた戯曲が、大人達の戯曲と肩を並べて公刊されたことが、いかに全国の高校演劇関係者から注目を集めたかは当時の上演記録からも容易に推察される。
例えば、前述の戯曲集は1956年3月に出版されたが、同年12月の千葉県第9回中央発表会で早くも、船橋学園女子高校と木更津第二高校の2校が「向い風」を上演している。船橋学園女子高校は2年後の1958年8月にも、第4回全国高等学校演劇指導者講習会(全国大会)で「向い風」を上演している(当時の全国大会はコンクールによる選出ではなく、指導者講習会におけるモデル上演という位置付け)。また、徳島でも1956年の県大会において城東高校と名西高校の2校が「向い風」を上演しており、その人気の程が窺える。
その後も、熊本県大会では1961年に熊本家政女学園高校、1962年に九州女学院高校が、東京都中央発表会では1962年に二階堂高校、1967年に富士見高校が、広島県呉地区大会では1963年に呉豊栄高校、1966年に清水ヶ丘高校が、同じく1966年に群馬県第2回中央発表会で桐生市立商業高校が(最優秀を受賞し、翌年、関東大会にも出場)、1975年に中部大会で福井の勝山高校が、1984年には群馬県北毛地区大会で吾妻高校が、「向い風」を上演している。しかも、これらはGoogle検索で分かる範囲の記録に過ぎず、実際にはさらに多くの上演が行われたと考えられる。
以上から、「向い風」は生徒創作の嚆矢であり、しかも全国で広く長く上演され続けた、いわゆる「名作」としても位置付けられることが分かる。ここで大切なのは、「名作」となった理由であり、それ以前の顧問の手になる「名作」(例えば榊原政常「しんしゃく源氏物語」など)とは事情が異なるように思われる。すなわち、高校生自身が戯曲の創作に関わるという形で、自分達を作品の表現主体として、また、そこで描かれる題材の当事者として、従来よりも一層自覚を深めていく、そのきっかけが「向い風」という作品の出現であり、そのことへの全国の高校生による強い共感こそが「向い風」を「名作」へと押し上げた理由ではないかと考えられる。このような当事者性と共感に基づく共同性は、現在に至る高校演劇の歴史の中でも脈々と受け継がれている。
2.個別具体的な社会問題の提起としての意味
「向い風」は、当時の社会問題である炭坑不況の人身売買をテーマとしている。それは「お勉強」の対象としての社会問題などでは断じて無く、自分達自身が当事者として渦中に置かれた、切実な問題の提出としてあった。『青年演劇一幕劇集〔第一集〕』(1959年、未来社刊)の編集後記で、編者の青江舜二郎氏は以下のように記している。
また、高校演劇創成の立役者の一人であり、顧問として数多くの名作の生み出し、長らく全国高等学校演劇協議会会長を務めた内木文英氏は、著書『私の高校演劇 1945‣1977』(2005年、晩成書房刊)のなかで、「『向い風』は高校演劇というものを象徴的に示す作品の一つだと思っている」として、次のように記している。
このことは、主人公・美代子が作者と同じ高校生(十八歳)として設定されており、作者自身を強く投影する存在であることからも確かであろう。このような当事者性は、その必然として、高校生の生活やそこに潜む様々な問題を記録するドキュメンタリー的側面を、高校演劇に生じさせる。その事情は、作品がフィクションという形式を採っていても変わらないものであり、実際に「向い風」はフィクションでありながら、当時の炭坑不況の貴重なドキュメントとしての価値を有している。
そして、このような記録性(ドキュメンタリー的性格)も、前述の当事者性と密接に関連しながら高校演劇の世界で確実に継承されており、現在でも数多くの作品において、高校生達を当事者とする様々な社会問題が描かれている。そのような社会問題の提起は、一方では、マス・メディアの論調をなぞる平板なものに堕したり、主張だけが浮き上がって作品をいたずらに説明的なものにしたりする危険性を孕みながらも、他方では、国や偉人のみが登場する「大文字の歴史」には描かれず、闇に埋もれてしまいかねない市井の人々の抱く様々な問題の貴重な証言になり得るという、文学・芸術の本質に根差した大きな可能性を有している。
3.同時代における象徴としての意味
いよいよ「向い風」のあらすじに触れよう。時は1954年頃の冬、所は福島県の炭坑街にあるバラック。十二月も下旬の夕方、美代子の家に姉の節子が帰って来る。美代子の父は炭坑での大怪我で働けなくなったが保険金も出ず、そのうちに炭坑自体がつぶれ、その上、貧困を何とかしようとして競輪に入れ込み、多額の借金を背負ったまま亡くなっていた。姉の節子は父の亡くなる直前に一家の苦境を救うために「奉公」に出たと聞かされていたが、久しぶりに帰った姉の異変から、美代子はそれがただの「奉公」ではないことを察知する。そこへ隣家の十六歳の達江とその母が訪ねて来て、達江が「奉公」に出ることになったと告げられる。美代子も達江もそれが姉の節子と同様、ただの労働ではないことに薄々勘づいている。やがて美代子らの母が帰って来て、立ち話の中で達江の母は、娘の奉公によって「菊地さん」から前金三万円をもらうこと、その金がなければ一家は餓死するしかないので、警察がどうみようと「菊地さん」は生命の恩人であることなどを告げて去る。その後、姉が(おそらくは女郎屋に)売られたこと、そこでの暮らしに耐えられず家に逃げ帰ったことが明らかになる。真相を知り「誰にもはっきり認められる人身売買じゃないか」と激怒する美代子に対して、母は、そんなことはこの辺りではごく普通の誰も驚かないことであり、美代子こそ学校に通って余計なことばかり覚えて来る、世間知らずの親不孝者だと非難する。やがて店の女将が節子を迎えに来る。女将にも突っかかる美代子に対して、母は美代子に謝るように叱るが美代子は謝ろうとしない。女将は「そりゃ、あたしだって、娘の頃はこんな自分になろうとは、考えても居なかったよ」と言いながらも、生きるためには善悪を考える暇などなく、美代子はまだそんな事情を知らない子供だと難じる。そこへ、達江の母が再び現れて、達江が書置きを残して行方不明になったことを告げ、探しに出かける。諦めて、女将に連れられて、家族の生活のために、あれだけ嫌がっていた店に戻る決意をする姉。そこへ、達江の母が娘の名を呼んで泣き叫ぶ声が響き、達江が自殺したことが暗示される。美代子は達江の死に衝撃を受ける。姉は、美代子は美代子で精一杯生きているから怒らないようにと母に頼み、かすかに笑って去る。「にえきらない気持」をあらわして、姉とともに去る女将。家の中にかけこんで泣きじゃくる母。ひどい追い風に押されていく姉の背に美代子は言う。窓にかけよって声をあげて泣き、とめどない涙を流しながら。「……おら……ちがうぞ……おら、……向い風だぞ――向い風で行くぞ――!(中略)おら、まけねえど……風だっていつまで吹いてるもんでねえ……さあ来い……どっちがかつか(中略 姉や達江の名を幾度か叫んだ後)ちきしょう……でも、おらは負けねえど……」風はますます強くなる。(2)
できるだけ戯曲の構成やニュアンスを損ねないように、やや詳しくあらすじを述べた。本章では、「向い風」という作品が、前章までで述べた当事者性や記録性に加えて、同時代の高校生や高校演劇関係者にとって、ある種の象徴性を備えていたことを示していく。例えば、劇中で描かれる炭坑街の困窮や貧困は、たとえ炭坑街に住んでいなかったとしても、あるいは人身売買のような深刻な事態に至らなかったとしても、高度経済成長以前の日本社会にあっては、我が事として数多くの者が共感したであろう。
また、それ以上に注目されるのが、美代子の造形である。前述の1956年千葉県での上演記録には上演校のコメントが掲載されており、「向い風」が当時どのように受け止められたかの貴重な証言になっている(3)。
まず船橋学園女子高校は以下のようである。
次に木更津第二高校のものを挙げる。
ここで特に注目したいのは、「美代子の生き方に深く感動しました」「彼女のもつ若さが、私達にも共通する大切な若さとして表現できたら」(船橋)や「これからの世の中は私達の世代が作り出して行くのだとそしてこんな世間にはあくまで戦うんだと」(木更津)という言葉である。これらの言葉から、当時の高校生達は自分達のモデルや象徴として美代子の生き方に深く感動し共感しているということが分かる。そしてその生き方とは、未だ理念としてしか存在しない戦後民主主義社会を実現していくということに他ならない。
『学生演劇戯曲集Ⅳ』に「向い風」と並んで収められている、林黒土作「春雷」のなかに「すくなくとも人間解放教育が行われて九年目になるんだからね。昔風の考えであまりがなり立てない方がいいよ」(p260)という印象的な台詞があるが、ここからも、当時の教育では、現在からは想像もつかないほどに、戦前の教育と決別して新しい社会を建設するという意識の強かったことが窺われる。また、1950年代前半の高校進学率は五割以下にとどまっており、この点でも95%以上の者が高校に進学する現在とは事情が大きく異なっている。つまり、当時の高校生は、受けている教育の新奇性の点でも人口比の点においても、社会におけるマイノリティであるとともに、新しい社会を築くパイオニアの役割を課せられており、そのことが「向い風」の美代子を当時の高校生の象徴たらしめたと言える。
1章では、「向い風」を名作たらしめたのは生徒創作の嚆矢であったからだと述べたが、そのような形式面だけではやはり不十分であり(もしそれだけであれば、同じ戯曲集の演劇部作「ぜにごけ」も同様でなければならないはずだ)、それに加えて、当時の高校生の境遇を象徴するような、美代子と美代子を取り巻く人間関係や社会環境を鮮明に描いたという内容面と、そのことへの高校生達の深い共感こそが、決定的な要因であろう。
このような意味において「向い風」は、前述の内木氏の言にあるように「高校演劇というものを象徴的に示す作品の一つ」であると言える。
4.現代における寓意としての意味
だが、以上であれば、私はここまで強く「向い風」に惹かれることも、この文章を書くことも無かっただろう。1~3章の条件を満たす「名作」は「向い風」以外にも多数存在する。もちろん「名作」であることはそれ自体で希少かつ貴重なことだ。それは分かっている。だが、「向い風」にはそれを超える境地が確実に存在しており、それこそが、私を驚嘆させた当のものであり、そして、現在の高校演劇の姿を鏡に映し出すようにして問題点を剔出し、ありうべき未来の姿を指し示す批評原理たり得るものであると考える。
それは、「向い風」が1950年代から現在まで続く日本社会の反動化の寓意として読み得るということである。
前章で、美代子は戦後民主主義の旗振り役を嘱望される高等教育の享受者たる高校生の象徴であると述べたが、当の戦後民主主義そのものが敗戦後わずか5年で逆風にさらされていた。1950年の朝鮮戦争勃発を契機として、日本の再軍備化に向けた流れやレッド・パージといった民主化に逆行する動きが顕在化し始める。いわゆる「逆コース」である。それは高校演劇にも無関係ではない。例えば、高校演劇と同じアマチュア演劇の一種である職場演劇(自立演劇)では、1947年から1949年まで3回にわたって、全国の職場演劇団体が参加する自立演劇コンクールが開催され、全国自立演劇協議会も結成された。これは、高校演劇の世界でもやや遅れて1955年から全国大会が開催され、全国高等学校演劇協議会が結成されたのと同様の動きである。しかし、職場演劇は、1950年のレッド・パージによって、担い手の多くが職場を追われ、衰退を余儀なくされた。同じ演劇表現に携わる者として、高校演劇関係者がこのような動向を知らなかったはずがない。「向い風」は、劇中に明示される炭坑街の貧困ばかりではなく、民主化に対する逆風をも含意し得ることを、当時の受け手は感じ取っていたはずだ(4)。
そして、そのような反動化の傾向は決して終わっていない。もちろん、一時的な風止みの時期もあったであろうし、高度経済成長からバブル経済にいたる好景気が、ひなたのように人々を暖め、風の強さを忘れさせるときもあっただろう。だが、向かい風は吹き続けている。日本経済の凋落や翳りに伴って、民主主義の未成熟がもたらす深刻な弊害を実感する機会は日増しに増え、今や向かい風は激しさを増すばかりだ。
このような社会構造が変革されない限り、「向い風」は当時の人々のみならず現代人にとっても、日本の社会構造に対する本質的な批評や問いかけの意味を失っていないと言える。もちろん、今日、当時の炭坑街の貧困を実感できる者は極めて少ないだろう(とはいえ、今日の日本社会が、貧困とそれに伴う(主に若い女性への)性搾取を再び身近で深刻な問題としてしまったことは悲痛の極みである)。しかし、当時の生活事情を知らないからこそ、我々は「向い風」を、より純度の高い寓意として受け止め得るはずだ。当時の貧困と今日の貧困とは、現象としては異なる部分も大きい。だが、その淵源としての政治や社会構造に目を向ければ、事態は驚くほどに何も変わっていないと気づくはずだ。そして、向かい風が強さを増す以上、我々が「向い風」を読み、受け止める意義は、これまでにないほど高まっているとさえ言える。
5.我々は何を学び得るか
おそらく「向い風」のような畏怖すべき傑作は、作者個人の意志だけでは成立し得ない、ある運命的な要素を有している。作者の岡野氏が地方の一女子高生として、1950年代の社会情勢において、炭坑街の現実の中で書き、高校演劇の生徒創作の嚆矢に選ばれて、この作品が世に広まったということは、多くの偶然が重なった一回限りの歴史的出来事であり、それを繰り返そうとしても、作者自身にもどうにもならないものが横たわっているのである。実際、2章で触れた『青年演劇一幕劇集〔第一集〕』には、岡野氏が大学在学中に執筆した、「向い風」に次ぐ第2作「ある午後」が収録されているが、これについて編者の青江氏は次のように述べている。
青江氏の、ある作品が正当に評価されないことへの義憤には大変共感するのだが、それでもなお、私個人の素朴な実感を申し上げれば、やはり「ある午後」より「向い風」の方が優れていると感じる(5)。確かに作劇術に関しては「ある午後」の方が格段に進歩しているのだが、「向い風」からは、日本社会に生きる者が今なお被らざるを得ない「運命」に似た何かが確かに感受され、それが受け手を深いところで揺さぶるのである。ギリシャ悲劇を引き合いに出さなくとも、それが演劇あるいはドラマの本質であることは容易に理解されるであろう。
だが、それでは岡野氏個人の劇作家としての資質は不問に付していいのかといえば、そうではない。確かに「向い風」には、作者の分身に相当するような人物の設定や、その人物が劇の最後に長台詞で自分の思いを語るといった、大会講評などで定番の「ダメ出し」を受けてしまうような劇作上の難点が存在する。つまり、劇作家の視点が登場人物のそれに堕してしまいかねないところがある。だが、美代子は岡野氏と似ていても、岡野氏は美代子ではない。岡野氏は美代子にぎりぎりまで近接しながらも、劇の急所で一線を引く。そこには確かに、主人公との自己同一を拒否して世界を冷徹に認識する劇作家の視線が存在するのであり、それこそが「向い風」を、70年近い歳月を越えてなお我々を揺さぶる普遍的なものにしているのである。
具体的には、岡野氏は劇を美代子の長台詞では終わらせていない。美代子の声涙ともに下る訴え、おそらくは岡野氏自身のものでもある痛切なそれの後に、岡野氏は平然とこう書き加える。風はますます強くなる、と。それが本当の劇の幕切れである。つまり、本人にとってどれだけ切実な声であろうと、それが社会にどれほども影響を与えない現実を、岡野氏はすでに十分わかっている。そこに自己絶対化や自己陶酔はあり得ない。実際、岡野氏は次のように述べている。
この言葉を初めて読んだ時、私は矛盾のただなかに突き落とされたような動揺と衝撃を覚えた。そして、何とかこの矛盾を解消するべく考えを重ねた。厳密にいえば、今も考え続けており、むしろそれをすっきりと解決した気になることこそが根本的な誤謬であると考えるようになった。真理は矛盾しているのである。つまり、「悲惨な状況に抗議する主人公が作者の代弁者であると感じさせ、受け手もそれに感情移入するように促す構成を明確に採りながら、同時に、作者の意図はむしろ、悲痛な現状を生きざるを得ない全ての人物、人間存在そのものへの共感にある」という「向い風」の特異な劇構造こそが、前述のような偉大な達成を作品にもたらしているということである。
付け加えれば、それは登場人物の描かれ方にも真実味をもたらしている。具体的には、美代子ばかりではなく、節子も達江も母も達江の母も、あるいは女将でさえも、美代子とは異なる生き方を進む人間だからと言って切り捨てられることなく、たんなる劇中での役割とは異なった、血の通う人間として造形されている。その端的な例が女将であり、単なる悪役としては決して描かれていない。特に節子が家を立ち去る際に、「にえきらない気持をあらわして」同行するところなどは、劇の構図の明瞭さを犠牲にしてでも、女将を一人の人間として描こうとする意図が伝わって来る。
繰り返しになるが、これは作者の自覚だけでは如何ともしがたい達成であるとともに、作者自身の明確な意志がなければありえなかったことでもある。
このように優れた創作に不可欠で本質的な逆説を我々自身の作品にもたらすために、我々は今、「向い風」から何を学び取ることができるのか。そのことを最後に書きたい。
以下に二つ述べる。一つは作者の世界認識のあり方という理知的な側面、もう一つは作品世界で描かれる感情的な側面であり、当然ながら両者は密接に関わっている。
「向い風」では、炭坑街の貧困という個別具体的な問題のみならず、作者自身の弁を借りれば、その底に潜む「生きねばならぬ人間の真剣な姿」を、すなわち人間存在そのものの探究を試みている。また、それを社会情勢と関連付ければ、「向い風」という寓意は今日まで変わることない日本の社会構造の本質を抉り出すところまで届いている。つまり、自らを取り巻く具体的な問題だけを見るのではなく、その背景や根底に何があるのか、何が今目の前の惨状をもたらしているのか、その本質は何かを認識したいという明確な意志がある。そのことがもたらす世界認識の普遍性というものが確実に存在するのである。
ここから翻って、高校演劇の現状をみればどうか。確かに数多くの社会問題が扱われている。それらは切実でさえある。現在のような明確な反動期、民主主義の退行期にあって、そのこと自体が貴重な営みであることは決して否定しない。馬鹿になど決してしない。
だが、自分のことばかりを見つめて、せっかくの切実な問題提起をシングル・イシューのままで終わらせてしまうようなことはないか。人間性の本質を見つめることで、問題を引き起こす当のものである社会の支配的な価値観やそれに基づく理不尽な社会構造を問い直すような、また、それによって、自らの問題を他者の問題と正確に関わらせて連帯や協働の端緒を形作るような、普遍的な問いかけにまで至っていないのではないか。そして、シングル・イシューについてのみの問題提起では、それがいかに切実であっても、作品が問題解決のための力を有することは決してないのである。女性解放運動のためではなく、一人の女性のありのままの姿、すなわち人間存在そのものを描こうとしたイプセンの『人形の家』こそが、女性解放運動に最も寄与する作品の一つだという事実は、文学・芸術創作に関わる本質的な逆説の範例であろう。
このことを感情の面から述べれば、怒りと涙の共存ということになる。美代子は社会の不正への怒りを最後まで手放すことがない。その最後の言葉をみれば一目瞭然であろう。だが、怒りの言葉を告げる、まさにその瞬間に声を上げて泣き、とめどない涙を流し続けるのである。怒りが拒絶や批判を表し、涙が受容や諦念に至るとすれば、それは端的に分裂し矛盾した態度である。美代子の人物造形が特異であるのは、この本来矛盾するはずの感情の分裂的な共存であり、それは前述の劇構造に正確に対応している。そしてここでも、分裂や矛盾をどちらか一方に解消することは、一見して問題の解決であるかにみえて、それこそが根底的な誤謬なのである。このことを他の登場人物と比較しながら述べると次のようになる。
まず涙を代表するのが節子と母である。家族のために我が身を犠牲にして、一度は抜け出して来た「奉公」に戻る節子と、生きる為に仕方ないと割り切ってはいても娘との別れに号泣する母。受け入れがたい現実に涙を流すものの、それは決して拒絶に向かうものではなく、むしろ涙のもたらす浄化とともに、受け入れがたい現実を受け入れるものとしてある。警察や社会は私たちが生きるために何もしてくれない、むしろ「菊地さん」こそが我々を助けてくれると嘯いていた、庶民のたくましさを代表するかのような達江の母も、娘の死に号泣する。それは一見明るくたくましく見える前向きな生き方が、実は世の中の理不尽さを変えられないという諦めに由来している事実を示している。あるいは、その涙の枯れ果てた先にある究極の合理化が、女将の生き方かもしれない。繰り返すが、そのような生き方を安易に否定するのではない。むしろそれらは避けがたいものとしてある。
あるいは、達江はそれとは異なる生き方を選択したとみなされるかもしれない。受け入れがたい現実を拒否するために自死を選んだ、と。とはいえ、それは節子や母たちと同様に、現実を変えることは不可能だという絶望と諦めに規定された行動であり、どれほど切実であっても、真の自発性や社会批判とは言えない。拒絶の形をとった諦念であり、酷な言い方をすれば、自己欺瞞は一層亢進しているとさえ言い得る。
次に、怒りを代表するのは美代子であるが、美代子の怒りにだけ注目することは、作者が懸念を表明していたように、この劇を社会問題の提起としてのみ捉えることとなり、美代子らの言葉だけがいたずらに浮き上がった「どなり合い」に帰結してしまう。
美代子はあくまで怒り、かつ泣いていたのである。
以上のことを、向かい風に向き合う態度として言い換えれば、どういうことが見えて来るだろうか。
まず、節子や母たちの態度は次のように表されるのではないだろうか。「現実は向かい風だ。だから、自分たちの望みや理想は諦める。」このように定式化すれば、一見対極に見える達江の行動も同様に捉えられることが分かる。
次に、美代子の態度はどうであろうか。最も一般的な見解としては次のようになるだろう。「現実は向かい風だ。けれど、私は自分の望みや理想を諦めず、立ち向かう。」これで何の問題もないように見える。だが、これでは、怒る美代子は説明できても、泣く美代子を説明することはできない。
そこで、私は、美代子の態度を次のように定式化したい。「私は立ち向かう。だから、向かい風は向かい風としてある。」そもそも向かい風とは実体として存在するものではない。向かい風は、あくまで風に面と向かって対峙する者にとってのみ向かい風なのであり、そうでなければ、ただの強い風に過ぎない。あるいは、流れに掉さす者にとっては、同じ風が追い風にさえなるだろう。美代子の怒りによって初めて、目の前の現実は、今は無理でも本来は乗り越えられるべき「向い風」の状況として、涙とともに認められ受容される。それがなければ、目の前の状況はただ平板に過ぎゆき、歴史の闇へと消え去るばかりであり、後世の我々まで伝わることはなかったのである。こう考えて初めて、怒りと涙の共存という逆説を説明できるのであり、そこにはキリスト教の始原的な意味における「愛」のあり方が感得される。「愛」とは本来逆説的なものでしかありえないのであり、そのことに耐えられない性急な人間が真っ先に「愛」を陳腐化したり、否定したりするのである。愛の反対は、憎しみや無関心ではなく、真の「愛」に他ならない。そしてそれこそが、どんな否定よりも世界を変えるのである。
ここから高校演劇の現状を顧みたときに、二通りのあり方がよく見られることに気づく。一つは、涙をもっぱらとする作品である。いわゆる「名作」であっても、この要素の強い作品が多いことは、何も高校演劇に限った話ではない。日本文芸の全般的な傾向としてある。それは確かに痛切に胸を打ち、涙を誘い、観客をカタルシスへと誘うものであり、アリストテレスの『詩論』によれば、それだけで演劇の本質を十分に実現していると見なすこともできるのだが、それはいわば節子や母のような人物だけが登場する作品である。もちろん、節子の健気さや母の苦悩自体が十分感動的なものであるのだが、そこに美代子はいない。
もう一つは、怒りや現状への批判意識のみが浮き上がった作品である。これはブレヒト的な異化効果と言えば聞こえはいいが、いたずらに説明的になって観客に十分伝わることがなかったり、批判自体の定型性や紋切り型の重畳によって現実を変えられない絶望の方が先に立ったりして、結果として最悪の現状追認に至ってしまうようなことはないだろうか。これもいわば達江の行き方であって、あるいは、怒ってばかりの美代子のあり方であって、そこに真の美代子はいない(6)。
美代子が向かい風に立ち続けて、もう70年が過ぎようとしている。それに続く者は我々の中にいるか。
私の知る限り、「暗渠」(7)や「オツベルの象たち」(8)などを数えるばかりである。
もちろん、私の観劇経験は狭く乏しいものであり、おそらくもっと多くの作品を挙げられるはずである。そして、その数が一つでも増えていくことが、高校演劇の真の「未来」につながると考える。読者の皆様の教えを請いたい。
私にとって演劇を作ったり観たりする際の唯一の基準は、そこに美代子がいるかどうかである。実際には、自分の芝居は、眼高手低の誹りを免れず、数限りない失敗や敗北の連続でしかあり得ない点が、弱小顧問の悲しみではあるのだが、それは構わない。作品が向かい風に立ち続けているかどうかだけを、私は心している。(2022.3.28.)
注
(1)「向い風」の初演年については正確な記録をまだ確認できていない。本文でも後に触れる『青年演劇一幕劇集〔第一集〕』(1959年、未来社刊)の編者、青江舜二郎氏が編集後記(「編集をおえて」)の中で次のように述べているのが手がかりになる。「この作者は三年前は高校生で、『向い風』という身売の問題をあつかった作品を書き、それを私が『悲劇喜劇』に推薦した。」しかし、編集後記の末尾の日付が1959年1月7日になっており、その3年前となると1956年のことになり、辻褄が合わなくなる。というのも、本文でも後に触れるように、「向い風」が収録され世に広まるきっかけとなった『学生演劇戯曲集Ⅳ』が早川書房から刊行されたのが1956年3月だからだ。1956年の2月までに上演された作品が3月に出版されたと考えるのはさすがに無理がある。そこで、前述の編集後記末尾に「昨年十月下旬発行予定がとうとう年を越してしまった」とあるのに注目すると、編集後記の先ほどの記述は1958年を現在時とする前提で書かれていたと推測できる。そうすると「向い風」の初演は1955年になり一応の辻褄は合うが、推測の域を出ない。また、劇中の時間が1954年頃と指定されていることから、1954年初演の可能性も捨て切れない。現時点では、「向い風」の初演は1954年か55年のいずれかであり、55年の可能性が高い、としか言えない。
なお、福島県高等学校演劇連盟の事務局長を務めた経験のある顧問の先生に、「向い風」の福島県大会での上演記録が残っていないかを、数年前に個人的に照会したことがあるが、記録が残っていないとのことであった。
(2)公刊された「向い風」の戯曲には、私の知る限り2種類のものがある。一つは既にふれた『学生演劇戯曲集Ⅳ』(1956年、早川書房刊)所収のものであり、もう一つは『高校演劇一幕劇集〔第四集〕』(1959年、未来社刊)のものである。ここでは前者に基づいてあらすじを紹介した。理由は作者の意図により忠実と判断したからだ。
二つを比較すると、プロットに変化はないが、ト書きや台詞には異同が多い。例えば、1956年版では「昭和二十九年頃の冬」とあるのが、1959年版では「昭和二十九年の冬」とされる等、戯曲の曖昧で不明瞭な部分を明確化する傾向にある。人物造形にもその影響がみられ、劇の末尾の女将は、1956年版では「にえきらない気持をあらわして」とあり、未だ冷酷になりきれない人間味を示すのに対して、1959年版では「女将、無感動に、下手へ去る」となっており、娘との別れに際して泣きじゃくる母との対比を鮮明にしている。つまり、劇中での役割がより重視されている。また、1959年版には美代子の姉、節子の台詞として「おらは、死なない。生きて行く」という、1956年版にはない台詞がクライマックスの別れの場面に追加されており、節子の生き方にも焦点が当てられ、ある種の「美化」が行われていることが分かる。
この台詞や節子のあり方には、それ自体で十二分に人の心を打つものがある。もしかしたら、美代子よりも節子の生き方に共感を覚える人も多いかもしれない。しかし、美代子と節子とを対比させて考えることは不毛であり、そのような、為政者に都合の良い分断を乗り越えて、登場人物全員が置かれている向かい風の状況をともに変えていくにはどうすればいいかという考え方が大切と思われる。
(3)千葉県高校演劇第9回中央大会の上演記録を参照。
(4)詳しくは拙稿「『自由を守った人々』と憲法記念館~70年前の高校演劇~」参照。
(5)菅孝行『演劇で〈世界〉を変える 鈴木忠志論』(2021年、航思社刊)を読んでいて、ふと鈴木忠志氏と岡野奈保美氏は(そして筆者の菅孝行氏も)、ほぼ同年代(1950年代末から1960年代初頭)に東京の大学生として学生演劇に携わっていたという事実に思い至った。もちろん、日本を代表する世界的な演出家である鈴木氏(そして高名な評論家である菅氏)と、高校演劇・学生演劇の書き手としての岡野氏を、同列に論じられないことぐらいは重々承知している。同書第Ⅴ章末尾における菅氏の分類に従い、鈴木氏が「純粋芸術」の代表とすれば、岡野氏は「限界芸術」(非専門家による芸術)のそれと捉えれば、おそらく何の問題も無いのだろう。これで議論は終わりだ、と。しかし、どこかにもやもやしたものが残り続けて、次のような「へそ曲がり」なことをつい考えてしまう。もし1960年代当時の時代思潮の主流が、左翼的な(往々にして男性中心主義的な)政治思想ではなく、フェミニズムやジェンダー理論であったとすれば、作品の評価は一体どうであっただろうか、と。歴史にifは存在しない。もちろんそうだ。だが、現在の単純な延長線上に無い「未来」の可能性を想像するためには、あくまで歴史の一回性を重んじつつも、「こうでありえたかもしれない」潜在的な歴史の可能性に思いを巡らすことこそが必要ではないだろうか。また、それによって、現在までの歴史の一回性の根拠(「なぜこうでしかありえなかったのか」)に対する認識も深まるだろう。それこそが歴史の一回性と可変性の認識を両立させる方法であると思われる。この視点から眺めると、岡野氏の「ある午後」には、ある窃盗疑惑事件をきっかけにして、学校や教師の序列化の視線を跳ね返そうとする、女子高校の生徒たちのシスターフッド的連帯が描かれていることに気づく。第三次フェミニズム・ブームとも言われる今日である。岡野奈保美が読まれるのは、実はこれからなのかもしれない。
加えて、菅氏の著書からは教えられることが多大であり、特に近年の演劇評論における「歴史の偽造」に対する批判には大いに共鳴するところがあったのだが、鈴木氏を評する際の「世界水準」という概念にだけは素直に同意できなかった。議論の客観性や公平性を担保するために実証的な基準が不可欠であるというのは分かるが、「世界」という語を、海外での公演や外国人への演出指導経験や海外アカデミズムの評価や国際演劇祭の開催といった定量的なものでのみ捉えることは果たして可能だろうか、あるいは望ましいことだろうか。もちろん、プロの演劇人や「純粋芸術」としての演劇を評価する際の基準としては、つまり、競争を前提する場合には、それでいいのかもしれない。だが、あくまで「限界芸術」の立場で、特に高校演劇という教育の場で考えた時に、教育哲学者のガート・ビースタが『教えることの再発見』(邦訳2018年、東京大学出版会)で引いた「主体である生徒は、世界の中心を占めることなく、世界の中に生きることができる」という言葉が想起される。それは、実体としての世界の中で上位を占めようと争ったり、他者を排除して独善的に振舞ったりすることの対極として、教育を通して生徒が個々に未知の「世界」と出会うことで主体化していく過程を示していると考えられる。このような脱中心化された、個々の主体にとっての「世界」認識の、高校演劇における最もめざましい例の一つとして、私は「向い風」を捉えている。
あくまで私個人の素朴な実感であり、暴論と言われるかもしれないが、鈴木氏の「世界の果てからこんにちは」における高名な「日本がお亡くなりに」という言葉よりも、「向い風」という寓意の方が、日本社会への批評として私には「必要」であり、「食うべき詩」(石川啄木)である。そこには「世界」が確実に開かれている。この実感がひとりよがりだとは思わない。なぜならば、それが日本社会の構造に根差しているからだ。
(6)詳しくは拙稿「反動期の高校演劇1~7」参照。
(7)「暗渠」は、世界的な反新自由主義の潮流を我が事として受け止め、最低賃金を1500円にしようという社会運動に、格差や貧困を解消する糸口を見出そうとする一人の少女の活動と生活をともに大切に描いた作品(古田彰信作、徳島・城北高校および城東高校上演、2016-2018年、顧問創作)。ちなみに、このタイトルも「向い風」同様に、社会の暗部を直視せず、逆に蓋をして済ませようとする現代社会の寓意として卓抜である。
作者のブログ「フルタルフ文化堂」により詳細な記事がある(2018年8月31日)。
(8)「オツベルの象たち」は、家事とバイトと進路決定に追われる高校生が、バイト先の工場で、特別支援学校卒業の後輩が卒業後も先生から手厚い支援を受けたり同級生とにぎやかに談笑したりしている姿を見て、障害者に対して「逆差別」的な感情を抱くエピソードを中心に、工場でともに働くベトナム人労働者や中高年労働者の話も交えながら、自らの「逆差別」的感情が、新自由主義下において労働者でありながら経営者マインドを内面化させられ、自己責任の名の下に数的評価による競争や序列化を自明のものとする意識の中で醸成されたものであることに、障害者との交流の中で目覚めていく過程を、宮沢賢治の童話「オツベルと象」に仮託して描いた作品(山田勇気作、北海道・新篠津高等養護学校上演、2020年3月春フェス新潟大会出場〔新型コロナウイルス感染拡大の影響で、オンライン動画配信のみので開催〕、顧問創作)。ちなみに、劇中で工場の生産物として提示される、抜き板を三角錐状に組み合わせたようなオブジェは、使用価値を無くし、価値〔交換価値〕による利潤増進のみを目的とする資本主義的生産を表していると考えられ、主人公の周りを囲っていたそのオブジェが劇の末尾で一気に倒されていく様は、利潤のみを重視する社会の価値観が差別を生み出し、それを転倒させることが差別解消や多様性の実現につながるということを、理屈ではなく象徴的に描き出した見事な幕切れであった。
ただし、作中でのベトナム人労働者(技能実習生であろうか)のグエンさんの描かれ方には同意できないところがある。具体的には、グエンさんがベトナム国旗のTシャツを着て、お昼ごはんにインスタントのフォーのカップを手に取って「フォー」と叫んで観客の笑いを取るところだ。そのステレオタイプ性は、たとえ悪意のあるものでなかったとしても、この作品の大切なメッセージである「レインボー」に託した想いと相違するところがないだろうか。この大傑作における唯一の瑕疵と思われて残念でならない。
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