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『自由を守った人々』と憲法記念館〜70年前の高校演劇〜

 

はじめに

 1949年に第1回大会が開催された徳島県の高校演劇は今年(2019年)、70年を迎えた。現在、徳島県高等学校演劇協議会では70周年記念誌の刊行を準備している。今年の2月には、顧問有志で全国高等学校演劇協議会顧問の浅香寿穂(あさか ひさほ)先生と紋田正博(もんだ まさひろ)先生をお招きして70年を振り返る座談会を行った。座談会は記念誌に掲載される予定であり、70年の歴史の厚みを実感する絶好の機会となった。
 なかでも最も心惹かれたのはやはり第1回大会のことだ。協議会の上演記録にはこうある。

1949(第1回)    11/3    憲法記念館
●城東 自由を守った人々
 城南 息子       小山内薫
○鳴門 海に帰りゆくもの シング
◎川島 おふくろ     田中千禾夫
 成徳 歌舞伎踊
◎=1位 ○=2位 ●=3位

 私が気になったのは2点。1つは開催場所の憲法記念館とはどこかということ(徳島に憲法記念館という施設があるとは聞いたことがない)、もう1つは『自由を守った人々』とはどんな作品かということである。そこで、この2点について調べて分かったことを以下に記す。併せて、この第1回大会の記録が、今日の社会に対して持つ意味について考える。

憲法記念館について

 徳島県立図書館のHPに「徳島県立図書館の沿革」として以下のようにある。

大正5年7月24日 大正天皇即位記念として創立、徳島県立光慶図書館と称する。
昭和20年7月4日 戦災により焼失する。
昭和24年5月3日 徳島県立光慶図書館を再建し、憲法記念館と称する。
昭和25年3月13日 火災により焼失する。
昭和28年11月3日 徳島県立図書館の開会式を挙行する。

 なるほど、憲法記念館は現在の徳島県立図書館の前身に当たり、戦前の徳島県立光慶図書館が空襲で焼失した後を受けて設立されたようだ。とはいえ、なお疑問は残る。なぜ図書館ではなく「憲法記念館」と称されたのか。なぜそこで徳島の高校演劇第1回大会は開かれたのか。そもそも図書館で演劇の大会を行うことは可能なのか。
 『徳島県立図書館百年史』によると、憲法記念館を建設する案を出したのは、当時、全国組織として政府と両議院によって創設された憲法普及会の徳島支部とのことである。同書に引用された『徳島の社会教育』(徳島県教育委員会,1959)の記述を再引用する。

 昭和22年11月3日に新憲法が公布された際、県ではその普及を目的として憲法普及会が生まれた。たまたま起こっていた光慶図書館再建の機運を、この普及会がとらえ、二つの運動が結合したものとして、県立図書館をかねた憲法記念館を建築する案が出された。
 図書館の復興と社会教育の場としての中央公民館的建物を必要とするという声が、憲法普及会県支部から生まれた。当時の知事阿部五郎氏を会長とする憲法記念館設立促進協議会が組織され(中略)木造洋風2階建の憲法記念館が開館したのは、昭和24年5月3日であった。 

 少し答えに近づいてきた。憲法記念館は、図書館と中央公民館の機能を兼ね備えていたようだ。
  次に 『徳島県立図書館七十年史』には、憲法記念館の外観や姿図、平面図、募金のチラシ、設立主意書等の写真が掲載されているので、まずそれを紹介する。

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(これは募金のチラシ)

    さらに、設立趣意書だが、これを読むと、先ほどの疑問の答えが見えて来る(画像では字がつぶれて読めないので、以下に翻刻して紹介するが、素人の翻刻なので誤読を含むかもしれない)。

  憲法記念館
  一、設立趣意書
 憲法実施を記念し、県民の郷土建設に寄せる総合的な力の凝集として、憲法記念館を設立し、民主平和日本建設の重大な使命を果そうと企図するものであります。八十万の県民が社会の凡ゆる不安と混迷を乗り越えながら、自ら道を求めて祖国再建の活動を続ける足場とし、依り処とするものが此の憲法記念館であって、自ら教養を求めて自助自学する図書館。眼に訴え耳に訴え感覚に訴える等、環境に依ってする科学館、美術館、博物館、郷土館。常に討議し研究し、自己を主張すると共に他の説を聞いて反省し協力する会議場。衆と共に放送や講演や音楽を聞き、映画や演劇を観て文化を享受して行く集会場ともなり、県民の凡ゆる文化教養の機関として、相互に交友を深め共闘切磋の場所となる外、県下各地の文化を接触交流するためトラックを備えて移動図書館、移動映画、巡回座談会、巡回講座等を実施して、総ての人々が仲よく理解しあって日本再建に協力する原動力となるよう運営してゆくものである。此の記念館は全県民のものであり、全県民を対象として活動するものであるから、八十万県民の全幅の賛同と御支援を得て設立したいと存じます。茲に設立の趣意を述べて大方の深き御理解と絶大な御賛助をお願する次第であります。

 長い引用となったが、中盤に「演劇」の文字が見える。また、図書館にとどまらない多種多様な文化活動の拠点を意図していたことも窺える。そして、それらの活動は「民主平和日本建設」のためであるとされる。「民主平和日本」の理念は、日本国憲法に示されている。「憲法記念館」という名称の由来や、演劇の大会がそこで開かれる所以も、ここから理解できるだろう。
 このことを、より具体的に教えてくれるのが、憲法記念館館長(後に徳島県立図書館館長)を務めた蒲池正夫(かまち まさお)氏の「蘇る不死鳥ーー徳島憲法記念館の使命と機能」という文章である。蒲池氏は憲法記念館を「図書館を中核とした文化サービスステーション」と明確に規定し、「新しい今後のライブラリアンは、今やフィルムやレコードの倉庫番ではなく、生きた活動的な文化人でなければならない。」と自らの使命を語っている(この文章自体が憲法記念館の月報「徳島文化」第一号〔1949年12月〕に発表されており、ここで目指された文化活動の端的な実践と言える)。

 憲法記念館は、戦災で焼失した県立光慶図書館あとに生まれた。西欧のたとえ話に、不死鳥が自ら焼け死んで、その死灰の中からよみがえるということだが、県立図書館あとに、県中央図書館を中核とした県文化のサービスステーションとしての幅と機動性をもった記念館をよみがえらせた県民の意よくは、死灰からはばたき上がる不死鳥の神秘を現実に徳島に出現させたのである。記念館を県文化の拠点たらしめなければならないという県教育委員会や、河野教育長の方針と、記念館は文化的な組織運動体でなければならぬという阿部知事の信念とは、記念館に新しい構想に立った機構と性格とをあたえた。それを私どもは、わかり易く、記念館は県民への文化サービスセンターでなければならないというのである。(中略)記念館には集会用の大ホール、中ホールもあれば、小部屋もある。宿泊室もあれば、浴室も食堂もある。それは、県民の皆さんの自由な使用に供している。しかし、私たちはこうした施設の単なる番人ではなく、こうした施設を座として、社会教育や文化活動が行われてゆくように、県民や官庁や各種団体にサービスをしてゆくことが、記念館の仕事であり、記念館自体の文化活動は、そうしたサービスのうちに、おのずから指導性を発揮されてゆくものと思うのである。この意味で、私どもは単に施設の賃貸しをする会館的性格のもたない機能を重視するのである。(中略)私どもは、県民文化を指導するという言葉を好まないが、記念館における文化指導というのは、あくまでサービスでなければならぬという信条から、文化の各分野における記念館の活動は、できるかぎり、その分野における全県的な連絡協議機関に諮問し、協力を求め、場合によっては、運営をこれに一任する。たとえば、毎日曜美術室で開催する美術研究所を、徳島県美術家協会に運営をゆだね、同協会所属の徳島美術研究所とし、演劇文化をつねに県自立劇団協議会に協力して指導しているのもこのためである。記念館は、これらの外かく団体に、つねに事務的な援助と協力を行うことによってサービスステーションとしての任務を果たし、県文化の拠り所を提供して行かなければならない。
  ーー「蘇る不死鳥」 引用は『蒲池正夫選集』〔1980年〕よりーー

 印象的なのは、蒲池氏が、後に「ハコモノ行政」と呼ばれるような「単に施設の賃貸しをする会館的性格」を否定し、各種の外部団体と連携しながら県内の文化活動を推進していく積極的な姿勢を明確に表明していることである。浅香寿穂先生も、「徳島県高校演劇のあゆみ」という文章の中で、「蒲池正夫氏は、美術から紙芝居にまで、あらゆる文化活動の組織作りの世話をされていた」とし、高校演劇の第1回大会でも、蒲池氏が林鼓浪(はやし ころう)氏や四国放送の松本進(まつもと すすむ)氏とともに審査員を務めていたことを紹介されている。
 つまり、憲法記念館という場所は単なる会場ではなかった。徳島の高校演劇は憲法記念館を拠点とする多種多様な文化活動の一環として始まったのである。

 これで先に述べた疑問の答えは一応出たことになるが、新たな疑問も生じた。蒲池氏の文章に出て来た「県自立劇団協議会」とは一体どういう団体であろうか。少なくとも今、高校演劇に関わっていて、そのような団体の名を耳にしたことはないが、当時の高校演劇の上演環境を知る上では、おそらく外すことのできない存在であろう。
 そこでさらに調査を進め、徳島県立図書館所蔵の『徳島県憲法記念館要覧』に行き当たった。憲法記念館のことを知る上での一次資料であろう。そこには「各種文化団体 開館以来今日までに本館に事務所をおく文化団体は次の表に見られる通りである」として、「美術文化」「文芸文化」「郷土文化」「演劇文化」「映画文化」「音楽文化」「高校文化」「図書館」という8つのカテゴリーに分類された23団体が挙げられている。「演劇文化」は以下の5団体である。

演劇文化
 (11)徳島県自立劇団協議会
     職場、地域の自立劇団の連絡機関
 (12)徳島県学生演劇研究会
     大学高校演劇部の連絡会
 (13)徳島県学校劇研究会
     小中学校演劇研究会
 (14)徳島画劇組合 紙芝居業者の組合
 (15)徳島県人形劇協会

※番号は他のカテゴリーも含めた通し番号。
※各団体の代表者名も記されているが、ここでは割愛した。

 なるほど、県自立劇団協議会とは、職場や地域のアマチュア劇団の組織のことか。色々調べていると、当時は自立演劇コンクールというものも東京で開催されたようで、現在の高校演劇のコンクールのようなものが社会人のアマチュア演劇でも成立していたようだ。
 また、高校演劇だけの組織が当時存在しなかった点も興味深い。高校と大学がセットで「学生演劇」、小中学校演劇は「学校劇」という当時の区分は現在の我々からみると新鮮だ。冒頭に述べた座談会でも、かつて「学生演劇」という枠組があったという紋田正博先生の証言もあり、『要覧』の記述と一致する。上演記録をみても、第2回、第3回大会には高校に混ざって徳島大学の賛助出演が認められる。これも現在の高校演劇コンクールのあり方を前提にしてしまうと、なかなか考えられないことだ。
 『要覧』の「(昭和)二十四年度の主なる実施事項」では、演劇に限っても、自立劇団発表会や文芸座発表会、学生演劇研究会、演劇講習会、中学校演劇コンクール、小学校演劇コンクールの開催が確認できる。文芸座というプロの新劇を含め、これだけの発表会やコンクール等が、1949年の徳島で高校演劇の大会を取り囲んでいたことには率直に驚かされる。しかも、それらは無関係かつ散発的に実施されたのではなく、憲法記念館という拠点において組織的な関係を有していたのである。(※実は『要覧』には高校演劇コンクール第1回大会の記載が見当たらないが、理由は不明である。同日の11月3日に「学校音楽コンクール」も開催されているので、高校演劇コンクールの記載が抜け落ちたのかもしれない。『百年史』に引用されている『徳島県教育調査書 昭和24年度』には「学校音楽コンクール、高校演劇コンクール、中学校演劇コンクール、小学校演劇コンクール」とある。)
 『要覧』の「(昭和)二十五年度の主なる行事」の項目には「高校演劇コンクール(11,19)」とあり、翌年の第2回大会も憲法記念館で順調に開催されたかに見える。だが、事はそう順調に運ばなかった。「沿革」にも記されていたように、その間に、憲法記念館が焼失したからである。

 1950(昭和25)年3月13日、憲法記念館は火災により焼失した。『百年史』によると、その日は、26日の天皇ご巡幸のために、全職員で「奉迎教育文化展」の準備と大掃除を行った。準備が終わった後、館員が順次入浴中の午後4時過ぎに小使室から出火した。原因は、かねてから消防署の指導を受けていた、浴室および小使室の煙突不備(竈の煙突の過熱)によるとのことである。
 戦災による図書館焼失から不死鳥のように蘇ったと蒲池氏に評された憲法記念館が、開館から10ヶ月あまりで再び焼失したのは歴史の皮肉という他ない。
 徳島県高演協の上演記録では、第2回大会は「11/19  城東高講堂」となっており、その後の高校演劇コンクールは、高校、大学、小学校の講堂での開催が続く。憲法記念館という拠点を失った打撃の余波は、1971年に県郷土文化会館を会場とするまで、実に21年の長きにわたることになる(その後、現在に至るまで、県郷土文化会館は徳島県大会の常の会場となる)。
 社会全体も、朝鮮戦争をきっかけに、「日本の民主化・非軍事化」に逆行する動きを顕在化させる。いわゆる「逆コース」の時代である。1950年に始まったレッド・パージは、自立劇団の活動家の多くを職場から追放することで、自立演劇に深刻な打撃を与えた。徳島での自立演劇のその後は未調査だが、浅香寿穂先生が演劇部員として高校演劇に関わった時点で既に、県自立劇団協議会の名は耳に入らなかったとのことであり、早い時点で活動を停止していたと推察される(『百年史』によれば、1956年時点では、徳島県立図書館の外郭団体として「徳島県職場演劇協議会」の名が確認できる。これは「県自立劇団協議会」が名称変更したものであろう)。
 憲法記念館は、焼失から3年後の1953年11月3日に徳島県立図書館として再建された。その後もしばらくは「憲法記念館」の名称が残ったそうだが、条例の変更によって公民館的性格は失われ、図書館として一本化された。憲法記念館から引き継いだ文化活動も、1962年の蒲池館長の転出に伴って方向性を変え、読書普及を中心事業とするようになる。
 このような歴史の急激な変転の中に置いてみた時、1949年の第1回大会の上演記録がもつ稀少な価値や意味が見えて来る。このことは最終章で詳しく述べる。

『自由を守った人々』について

1949(第1回)    11/3    憲法記念館
●城東 自由を守った人々
 城南 息子       小山内薫
○鳴門 海に帰りゆくもの シング
◎川島 おふくろ     田中千禾夫
 成徳 歌舞伎踊
◎=1位 ○=2位 ●=3位

 改めて第1回大会の記録を見直すと、その演目の多様さに驚かされる。5校しか出場していないにもかかわらず、歌舞伎踊や日本のプロの作品ばかりではなく、アイルランドの劇作家シングまでやっている(あるいは逆に、このラインナップに歌舞伎踊が入っていることが大変興味深い。このテーマを追求すれば、それだけでもう一本、別の論考を要するだろう)。
 そのような多種多様な演目のなかでも一際目を引くのが城東高校の『自由を守った人々』である。作者名のクレジットが無いのはおそらく演劇部の創作ということであろう。タイトルのみしか伝わらないが、これまで縷々述べてきた当時の歴史的状況や時代思潮をふまえると、何とも興味をそそられるタイトルである。敗戦から4年という時代を考えると、戦時中の軍国主義的統制に抵抗して自由を守った人々の話であろうか。あるいは、迫り来る逆コース、「向い風」の時代の予兆として、例えば、学校生活における生徒会のような自治活動と学校の管理体制との軋轢の中で自由を守るべく奔走した人々の話であろうか。あるいは、当時の社会問題や労働問題を取り上げて苦難の中でも自由を守った人々の話であろうか…。全く憶測の域を出ないが、空想はどんどん膨らむ。何としても作品の中身が知りたい。そう思ってこの1年、手を尽くしたが、現時点では成果は上がっていない。
 まず城東高校に連絡して、部室に台本が残っていないか確認してもらったが、1966年以前の台本は残っていないそうである(城東高校演劇部の皆さん、顧問の先生、感謝します)。
 また、地元の徳島新聞に投稿して高校演劇の過去の作品や大会に関する情報を募った。2件の応答があったが、いずれも『自由を守った人々』に関するものでは無かった(とはいえ、高校演劇に愛情を持って大切な資料をご提示下さったお二方に深く感謝いたします)。
 やはり探索が遅すぎたか。でも諦めてはいない。70年前の高校生は現在、85〜88歳と考えると、当時を知る方がいてもおかしくないだろう(何かご存知の方がございましたら、ぜひご連絡下さい。また、例えば80歳代後半の父母や祖父母や親戚などが、かつて徳島県の高校演劇部員だったというようなことがあれば、どうか思い切ってこの話を持ちかけてみて頂ければ幸いです)。

1949年の精神ーー第1回大会上演記録が指し示すものーー

 ノンフィクション作家の梯久美子(かけはし くみこ)氏が、青春を第二次世界大戦下で過ごした5人の女性に取材した『昭和二十年夏、女たちの戦争』の中に、こんな言葉がある。敗戦を14歳で迎え、後に日本映画界初の女性宣伝プロデューサーとして活躍した吉武輝子(よしたけ てるこ)氏の証言だ。

 私たちは、まだ精神のやわらかい、人間形成のまっただ中の時期に、新しい価値観を学ぶことができた。戦後民主主義の恩恵を、たっぷり享受できた世代で、それはとても幸運だったと思います。
 戦争に負けて大きな価値観の変化があったけれど、岡本先生のように、同じ目線で私たちに向き合って、苦しみ悩む姿を見せてくれた人もいる。平和とは何か、民主主義とは何か、人間が生きるとはどういうことかを、真面目に学ぼうとする姿勢を、日本人が共有していた時代だったんです。
 そういう時代は、実はあまり長くはなかった。朝鮮戦争が始まると、戦前とはまた違った形の管理教育に変わっていったの。レッドパージがあったりしてね。アメリカがもたらした自由を、またアメリカの都合で奪われたというか。ほんとうの民主主義教育がなされたのは、敗戦から朝鮮戦争までなんです。私はありがたいことに、そこの教育を受けているわけ。
 ※太字は引用者による。

 なるほど、吉武氏のこのような見方をあまりにナイーブだと嘲笑し廃棄することはたやすい。白井聡氏の『永続敗戦論』『国体論』や矢部宏治氏の『知ってはいけない』等を引き合いに出すまでもなく、戦後民主主義や日本国憲法の理想の裏側には、敗戦に伴う対米従属という現実が厳然と横たわっており、しかも、それは敗戦から今日まで続く事態であり、朝鮮戦争以降の「逆コース」の時期はそれが顕在化したに過ぎないということも確かな事実であるからだ。
 だが、それでもなお、私は吉武氏の見方を肯定したいと思うのだ。1945年の敗戦から1950年の朝鮮戦争まで、わずか5年の間ではあるが、そこに「ほんとうの民主主義教育」が存在した、と。それは他ならぬ吉武氏の証言からもそう言えるだろう。吉武氏の言葉は、当時を学生として過ごした人間の実感に裏打ちされている。そして人は自らの実感を裏切ることはできないものだ。
 また、このことは、本題である憲法記念館をめぐるエピソードによっても裏付けられると言える。『百年史』にはこうある。

憲法記念館は、(中略)寄附金400万円、県費155万円、国庫補助金37万7,000円、総工事費は592万7,000円であった。(中略)まさに県民の力で建設されたのである。

 憲法記念館の総工事費の3分の2以上が県民からの寄付で成り立っているのであり、これは驚異的な出来事と言っていいだろう。もしこの事業が民意を無視して国や県といった「上」からの一方的な指図によって行われていたとすれば、はたしてこんな奇跡が起こり得ただろうか。そこにはやはり、「新憲法」や「民主平和日本」という新しい時代への人々の熱意や期待が確かに存在したと考えなければならないだろう。また、当然ながら、憲法記念館の開館式が行われた日付である5月3日(憲法記念日、日本国憲法が施行された日)や、再建された徳島県立図書館の開館式の日付である11月3日(文化の日、日本国憲法が公布された日)は、現在の我々が頭で理解するよりも遥かに重大な、身体に直接のしかかるような意味を当時の人々には持っていたはずだ。
 このように考えた時、徳島県高校演劇第1回大会上演記録は、「ほんとうの民主主義教育」を我々に伝え、指し示し、物語る貴重な記録と言えるだろう。
 まず1949年という年は、翌年からの冬の時代を前に、ぎりぎり間に合ったと言える。11月3日という日付については言うまでもないだろう。また、憲法記念館という場所のもつ歴史的意味や、単なる貸し小屋ではない組織的な文化運動体としての側面も極めて重要である。そして何よりも上演された演目の多様性や社会性(ハンナ・アーレントの用語でいえば、世界性とも言い得る)。批評家の柄谷行人氏の言葉を借りて、これを「ルネッサンス的文学」と評したい衝動に駆られてしまう。もちろん、誇大な評価であることは自覚しているが。

 イギリスの映画作家、ケン・ローチが2013年に発表した『1945年の精神』は、1945年に労働党が、チャーチル率いる保守党を選挙で破り、NHS(国民保健サービス)を始めとする福祉政策を実現して行く歴史的経緯を描いたドキュメンタリー作品だ。労働党政権の福祉国家政策は、後のビートルズの世界的活躍を好個の例とする、ワーキングクラスの文化的躍進やイニシアチブの経済的基盤ともなった。とはいえ、この作品は無論ただの昔物語ではなく、むしろ現代における新自由主義や保守党の緊縮政策を批判し、現状打破のための方策を歴史の中に模索することを意図している。
 この拙文も、70年後の後進たる我々が、今後いかに進むべきかを歴史の中に模索する、ささやかな試みであった。それはいわば「1949年の精神」を、第1回大会の上演記録の中に見出していくことを意味した。当然ながら、それは第1回大会と同じ演目を上演することや憲法記念館を復活させることを意味しない。そうではなく、当時とは異なる社会的条件の中で、我々の文脈において、刻一刻と移り変わる歴史の激流のただなかにあって、「ほんとうの民主主義教育」や「1949年の精神」を、いかに反復し得るかということである。我々自身のやり方で、何度でも蘇る不死鳥のように。
 その意味で、徳島県高校演劇第1回大会上演記録は、我々が絶えず顧みて今後に進む道を問う原基であり、「1949年の精神」が示すのは、そのような精神の地点であろう。

※末尾ながら、浅香先生、紋田先生をはじめとする諸先生方に深く感謝します。とりわけ七十周年記念誌編集長の古田彰信(ふるた あきのぶ)先生には、貴重な資料閲覧や座談会開催等で格別のご厚誼を賜りましたこと、改めて感謝申し上げます。

(付記)徳島県立図書館はその後、1990年に置県100年を記念してできた「徳島県文化の森総合公園」内に移転し、美術館、博物館、文書館等と同じ敷地内に並ぶこととなった。今年で18回を数える「文化の森演劇フェスティバル」も、中学・高校・大学・社会人・シニアが同時に上演を行う貴重な発表の場であり、理念はともかく、現象や形態の面では、憲法記念館の形を変えた再現と言えるかもしれない。


 

 




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