論理の弱点

論理的に話をするということは重要だ。

なぜそう思うのか、ということを矛盾なく系統立てて話すことができれば、大抵のことは相手に伝わりやすくなる。一方で、論理を無視して感情的に語ると、特定の人の胸は打つかもしれないが、受け手によっては全く理解できないこともあるだろう。

「論理」は思考の解像度を高め、情報を伝達する上での受け側による理解の個人差を減らしてくれる非常に有能なツールなのだ。

ただ、万能ではない。

論理の出発点である「前提条件」が違うと、論理的な整合性が取れていても全く話が通じない。

例えば、「東京から福岡に向かうためにどの交通手段を使うのがよいか」ということを議論する相手が、もし「飛行機」の存在を知らなかったとしたら、多分話にならないだろう。

「飛行機はコストはかかりますが、福岡空港から市内までの距離も近いので、時間的なメリットは大きいと思います。空路で行きましょう。」

「いや、空を飛ぶなんて馬鹿げたことを言うな!鉄の塊が宙に浮くわけないだろう!」

極端な例だが、前提条件が異なるということは、これくらい滑稽な議論になりうるのだ。

だからそうなった時に話を前に進めるためには自分の認識する前提条件を相手に理解してもらうことだ。

先の例でいうと、飛行機の動画を見せたり、飛べるメカニズムを説明したり、年間の利用者数データを見せたりして、飛行機という選択肢を知ってもらう。

手のかかる手法だが、中身の濃い議論やコミュケーションをするためには、大なり小なりこの手順が必要だと思う。

ただ、それでもやっぱり伝わらないこともあるだろう。

「飛行機のことはわかったけど、やっぱり少なからず墜落する危険もあるわけだしやめた方がいいんじゃない?」

こうなったらもういっそのこと最終手段として感情論をぶつけるのもありな気がする。

「うるせえ!空飛びてぇんだ!!」

もう否定できない。そして、謎の納得感も生まれる。時に感情論は論理を凌駕する。

感情論には納得度の個人差が生じてしまうというデメリットがあるとの旨を冒頭でも述べたが、個人差があってもいいじゃないかとも思えてきた。それが人間なんだもの。

感情が走る道筋を組み立ててくれるのが論理であり、論理に火を灯してくれるのが感情なのだ。

それぞれを上手に使って生きていきたいな。




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