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めんどくせー、のは自分だった。

聖人君子ではないのに、

何の因果か、人の心によりそう仕事についてしまった。


どちらかというと、かなり人嫌い。

ひとりで本読んでいる方が、よっぽど楽しい。
ひとりで海にいる方が、よっぽど幸せ。


なのに、いったいどういうことなんだ、と、

いったい何なんだ! 

神様あんた、人選間違えたよね!

と、我ながら驚いてしまう。


そんな私なので、

ごくたまに・・・、

人間の喜怒哀楽の波に溺れかける時がある。

人にうんざりすることがある。

めんどくせーと思うことがある。


無自覚な身勝手さ、

無自覚な刃に、ほとほと疲れ果てることがある。


そして当然ながら、


もうやめたい

と思ったりもする。


聖人君子には一生なれそうもないくせに、

こんな仕事につきやがってと、

自分の愚かさに、がっかりしてしまう。


そういう時、

植物や自然相手の仕事だったらよかったにと思ったりもする。

植物は裏切らない。

植物はめんどくさいこと言ってこない。

お花はいいなー。

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でも、そんな自分に対して、

お花をかいかぶるんじゃないよ!と、どこからか声がする。

自分の中の別の自分にどやされる。


植物はもちろん、
めんどくさいこと言わない、依存なんかしてこない。

それは植物・・自然界がただあるだけだから。

でもだから決して、
自分の思い通りになんかなるはずがない。


むしろ思い通りになんて絶対にならない。

なのに、お花が自分に優しくしてくれると、

信じて疑わない自分がいる。

なんて傲慢なんだろう、ほとほと自分にあきれてしまう。


それは裏返せば、

人間は変えられる、自分の思い通りになる、という、

恐るべき傲慢な勘違いに陥っているからだ。


自然は無条件に優しいということも、

ただの錯覚。


自分がそう思いたいだけ。

優しくしてほしいだけ。



自然が時に猛威をふるうように、

人も容赦なく相手を傷つける時がある、


自然が温かく迎え入れてくれるように、

人もの温かさに震える時もある


なんだ、結局、人も自然も同じじゃないか。


優しいし怖い、

決して思い通りにはならないんだよ。


そうやってひとめぐりして、

ようやくふと思い出す。


そうだ、実は世界にあるものは、
何一つ自分の思い通りになんかならないんだった。

という、とても大事なことを思い出す。


良い悪いではなくて、

ただそうだというだけ


すべてはその時の自分の受け取り方だけなのだ。


人の喜怒哀楽に溺れている、と自分が思う時は、

自分の喜怒哀楽に溺れている。


人のことを、めんどくせーと思うのは

自分の中の、めんどくさい部分が、主張している時なのだ。


やっぱり、残念ながら

永遠に聖人君子にはなれそうにない。


とほほほほ。


なのに何の因果か、人の心によりそう仕事についてしまった。


とほほなのだ。

でもそれが天のはからいだとしたら、
お前がまず、自分の心によりそえよ、ってことなんだろう。


そうだった・

仕方ない。

自分にうんざりしたり、自分にめんどくせーと思い、

自分の喜怒哀楽に溺れかけながら、

なんとかかんとか泳いでいこう。


人間嫌いといいながら、嫌い嫌いも好きのうちなんだろうから・・・


そんなめんどくさい自分や、人間という生き物を

お花と同じように、そのまんま受け止めながら、

天にやれと言われた仕事なので、
続けていくんだな。


と、海で思ったこと。

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