重度重複障害児者に視線入力は使えるのか

このような内容のシンポジウムに参加させていただいた私の感想として書き残そうと思います。重度重複障害の定義として、重度の知的障害と身体障害を併せ持つと考え、私は「有効。しかし、使い方や周囲の認識の仕方によっては無効。」と考えています。

「有効」ってなんでしょう?
デジタル大辞泉によると、「ききめのあること。効力をもっていること。また、そのさま。」と書かれていました。
では、視線入力はききめがあるのか?とも読めますが、この「ききめ」に関しては、いつ、どのタイミングで判定して「ききめがある」と決めるのか?

私は視線入力装置もスイッチも「入力装置」でしかない、と考えています。
逆に言えば、入力され、動いた「もの(おもちゃ)」や「遊び」という結果を周りがどう扱うか?の方がよほど重要ではないのか?と考えるのです。

おもちゃをスイッチで動かす。外部入力であるスイッチを、その対象者が押しやすい(反応させやすい)ものにフィッテングして、動かす。
押せば(センサーに反応させられれば)おもちゃは動きます。ただそれだけのこと。問題は、その事象に気づき、楽しめているか?というところではないでしょうか?きちんと対象者、当事者は気づいて楽しめているのか?
周囲は、動かすことに成功するだけで「できた!」「遊べた!」「動かせた!」と喜び、そこから過大評価(稀に)して「わかっている」「気づいている」「楽しんでいる」と期待し、当事者の気持ちを丁寧に把握しようともせずに、動かす、つまりスイッチを押させることだけを考え始めていないでしょうか。
私はこの考え方は非常に危険であると考えています。

スイッチは重度重複障害児者に有効ではない、と言いたいのではありません。あくまでも、使った時の、その後の本人と周囲の対応が大事だと思うのです。もちろん、本人が喜びを感じているのであれば、何も問題はないと思います。
おもちゃが、またはPC画面が動いた、という結果で満足して喜ぶのではなく、その時の状況や当事者の反応を冷静に判断し、繰り返して見ていく必要があると考えます。

スイッチの上に子どもの手を乗せ、その上から支援者が押す。
随意運動とは考えにくい動きを拾い上げ、機器を動かして周囲が喜ぶ。
本当にその位置で見えているかどうかもわからないまま、おもちゃを置き、スイッチを設置し、支援者が当事者の手を上から押して「動かせた」と評価する。
本当に楽しんでいるのかどうか確かめないまま、満足する。
同じ流れで、目の動きをセンサーが捉えただけなのに、「見えている」「わかっている」「操作できた」と判断する。よく見る支援場面です。私はとても残念な思いで見ています。そこにあるのは子どもに何かをさせたという、支援者側の満足感だけ。

センサーや機器は、正しく設置できれば本当にわずかな動きを可視化してくれます。それにより、お互いの理解が進むことは間違いないと思います。その分、読み取りが正しく行われなければ、当事者の能力を周囲が勝手に解釈し、過大評価し、意味付けした結果、本人不在のまま何か違う方向に進んでしまうのではないか?
しかし今、そういう風潮がもてはやされているという危機感。
「視線入力やってます、はじめました」というだけで「すごいね」「進んでいる」と賞賛される。(内容はともかく・・・)

やってみないことには有効とも無効とも言い切れません。当事者のことは本人にしかわからず、「わかっているよ」と言ってもらえない為です。だからこそ、周囲は客観的事実に基づいて考えを巡らせ、丁寧に相手の認知や理解力を判断するしか無いと思います。

私は「とにかく視線入力(またはスイッチ)を使わせればそれでいい」としか考えていない人たちと意見が合うことはありません。残念ですが、機器さえあればそれで「なんでもできる」と考えている人が多いのですが、それは違う。

一方で、子どもの可能性は信じていきたい。あれもできない、これはきっと無理と言われ続け、わずかな希望を持っては現実に打ち砕かれる親からみれば、視線入力機器をはじめ、様々な機器やスイッチの利用で我が子の可能性と成長を信じたい。
「本当は理解しているのに、表出手段が無いせいで何もわかっていない人だと思われている現状をなんとか終わらせたい」とも考えています。そのためには色々な働きかけでどんな表出があるのかを、本人から教えてもらう必要があります。
相手を理解するための、人と人をつなぐための支援機器、それを操作するための入力デバイスの一つとしての「視線入力」
支援は機器・機械が行うのではなく、やっぱりそれらを理解して使う「人」によって行われるものではないか?
私は、可能性を信じて寄り添うことのできる支援者であるために、来年以降も努力して行こうと思います。

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