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可能性を思考する

「世界は、可能性で満ちあふれている」。そんな言葉をよく耳にする。
ヨガに限らず自己啓発やコーチングの世界でも。確かにとても賛同できる言葉だ。それぞれが個々のバックボーンに基づいて、この言葉を伝えているに違いない。いい機会だ。僕自身はこの言葉をどのように捉えるのか、今日も考察し言語化してみよう。

   この考察を始めるにあたり、捉えておきたい概念がある。それは、原始仏教で「縁起」という視点から説明され、大乗仏教へとつながり、ナーガールジュナ(龍樹)により体系づけられた「空/シューニヤ」という思想だ。「空」は何も存在しない「無(ない)」という言葉と混在してしまうが、仏教の経典では『いかなるものも恒久不変かつ独立した実相(じっしょう)を欠く』とされている。変化しないものはなく、すべては移りゆくものであり、単体で実在することもなく、必ず関係性の中にあること…とでも捉えようか。しかし、体系づけた龍樹やその後の思想家も、「空」の意味について明確な答えを残していない。「空」とは言語では表現できない、計りしれない「場」でもあるからだ。

   禅宗の中には「無字の公案」というものがある。簡単に言うと「無」に成り切って、「無」を解き明かしていく禅問答のことだ。20代最後に禅寺修行に行ったのだが、その寺の和尚から最初にこの公案を課せられた。この修行は、完全に「無」に成り切ることで、理論や分別での「有」、「無」ではなく、言葉で表現できない「空」を体験することが目的だった。

   ここまで来て、物理学者のアルベルト・アインシュタインの残した興味深い言葉を思い出した。「現代科学に欠けているものを埋め合わせてくれるものがあるとすれば、それは仏教です」。面白くなりそうだ。別の角度からも考察してみよう。

 僕達は1秒や1kmといった単位でできているマクロの世界に住んでいる。その世界は計測でき、かつ物理的に「有(ある)」か「無(ない)」で存在を証明する。一方でその常識が通用しない、量子論やミクロの世界では「有」と「無」が重なり合う「場」も存在する。この、普通はイメージしにくい事実に対し、アインシュタインは「神は賽を振らない」という言葉で反論した。「すべてのものには法則があって、それに則って動く」との立場だった彼からは、量子論の言う、観測した時点で「有」か「無」のどちらかに決まるという、まるで神がサイコロを投げ、出る目で世界を創造しているような不確実性が納得できなかった。しかし現代科学ですらいまだに解明できていない量子のふるまいは、まさに「有(ある)」になったり「無(ない)」になったり、フタを開けるまでは決まらないという現象が起こるという。

 このように現代物理学の視点、目に見えないミクロの世界でも、この「有」と「無」が混在する「場」が存在している。しかも解明されないままでも、この量子論を使って技術躍進が起こっている。そうやって考えてくると、きっと、この「場」の答えを解き明かしていくことは重要なのではなく、「有る」を絶対だと捉えたり、私には「絶対にできない」などと固定化してしまうことを、「そうではないかもしれない」と捉え直す過程こそが、僕達が大切にしたほうがいいことなのだと思う。だから思想家達は明確な答えを残さなかったのだろう。


 僕達が見ているようには、世界は実在していない。それは、世界も神や僕(自分自身)すらもだ。そう捉える視点を持ってみよう。固定観念をすべて否定すると、今までの概念が破壊され、そこに新たな創造が生まれる。

そして、この何かが生まれるクリエイションを「神」や「宇宙の法則」と呼ぶのはどうだろう。それがすべての人間にも備わっている力だと考えると、また面白い。

 絶対有るとしたり、頑なにできないと考えたりするような概念を破壊することを、ヨガでは「気づき」と呼ぶかもしれない。僕は「気づき」≒「概念の破壊」と捉える。こうだと思い込んでいたものが壊れると、別の視点が生まれる。つまり、破壊・創造・維持のスパイラルだ。

 テーゼ・アンチテーゼの視座を一つ上げると、「有(ある)」も「無(ない)」も、どちらにでも行ける道が開ける。僕達の視点が凝りかたまらないように、故の思想家も物理学者も、それぞれの分野から同じことを投げかけている。「世界は可能性で満ちている」生きやすい場所であることを教えてくれているに違いない。

僕は今「こうでないといけない」という概念を壊したライフスタイルにより、「空」の状態であり可能性しかないと言えるかな。

まあ常にそうでありたいね。

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