本屋

 精神的に不安定な状態がいつまでも続いていて、僕は近所にある本屋の前に車を停めた。何故精神的に不安定なのかは僕自身にもよくわからない。だいたい原因がわかるくらいならそれを解決するための努力をすればいいだけだから、そもそも問題にすらならない。特に何かしら切羽詰まった問題に直面しているわけでもない。そもそも複合的な事によって憂鬱なのかもしれないし、そもそも何もないことが原因なのかもしれない。だとすれば一過性のものかもしれないし…。そんな思考がいつまでもグルグルと回っていた。どうかすれば頭がおかしいのかもしれない。だが、世間とはそれなりに上手く付き合っていけているつもりでいたし、そうでなく違和感を感じることもあった。だが「生きづらさ」とかを抱えている人たちをテレビかなんかで見たこともあるから、そんな人たちに比べたらまだましな方だということもわかっていた。ではこの感情はどこから湧き出てくるものなのだろうか、などとまた問いが生じる。問はさらなる問いを生み、未解決のままさらなる問題を提起する。いかん、いかんと思いながら現実世界に目を向ける。
 夕方5時頃。平日だから人はまばら。僕は本屋の中に吸い込まれるようにして入った。夕日と電灯が混ざり合う奇妙な空間。けだるいオレンジ色をした光が本にあたり、陽の当たらない物陰は寂しそうであった。人間というのもこんなものだと思う。光と影とかそんな鮮明に分けられるものではない。薄い光が当たるものもいる。その残った光を浴びて、やるせない生を生きるものがいる。昼間の殺人的な光の強さとは異なった2、3時間。そのほんの短い時間は何だか人間をおかしくさせるし、冷静にもさせる。ああ、なんで生きているんだろうとか、不意に死を連想させる。けれども実際に死にたいわけではなくて根源的な問いを生じさせる時間だと言った方がより正確だ。
 僕はなんとなく入口の新刊コーナーに行く。よく知らない作家や記憶に残らないタイトルを眺めては、もう名作というものは誕生しないだろうなと、偉そうな評論家のごとく眺めまわした。だが僕の書いたものが本屋に無いように、店頭に並ぶ時点でこれは凄い事なんだとも考える。僕と彼らの違いなんかを考えてもわからない。案外読めば面白いのかもしれないし、面白くないのかもしれない。だが近頃はとうに亡くなってしまった作家の本なども復刊されて、出版業界も大変だなとしみじみ思った。ふと、安部公房の『飛ぶ男』という本が目にとまった。アベコウボウ、確か本名はキミフサだっけ。なんだかヒラオカキミタケと少しだけ似ているような気がする。安部公房を読む人なんているのだろうか。『砂の女』くらいは有名だからいるかもしれない。けどもうすっかり忘れ去られているし、知らない人の方が多いんじゃないか。ノーベル文学賞の候補にもなった人物がこうも早く風化していく。それに抗うようにして遺作を出したところで…。そんなことを考えていると誰かがその本を手に取ってレジカウンターに行った。年配の男性で、少しだけタバコの嫌なにおいがした。その男の姿をぼんやり見ていると急にこの『飛ぶ男』が気になった。なぜだろう。そこにおそらく思考はない。誰かが取ったものを欲しくなる。それは人間的な本能に近い。子供じみている。手に取ってパラパラ読んでみるとなんだか難しそうであった。もう少しだけ考えてみようと本を元の位置に戻した。
 その後もぐるぐると文庫のコーナーやら単行本のコーナーを見ていたがしっくりくる本はなかった。収穫なし。もし買ったところですぐ読むわけでもないのだからそれはそれでよかった。すっかり暗くなっていた。
 本屋を出た。この1時間くらい何をしていたんだろうと反省する。本を読んでいる時間よりも本屋に居る時間の方が長いかもしれない。それは結局僕自身の優柔不断さを表しているのではないだろうか。こうやってふらふらさまよって、大きな決断をできずにいる。これからもこうやって生きていくのだろうか。そんなことを考えては先行きの見えない未来に恐怖を感じた。この真っ暗闇を歩いていく。何のために生きているんだろう。
 ふと周りを見ると茶トラの猫がほかの車の下をうろついていた。僕は好奇心からその猫の方に近づいて行った。手に届くすんでのところまで近づくと、猫は振り返り一目散に本屋の裏にある川の土手の方に逃げて行った。不審な人間が近づいてこれば誰だって逃げるだろう。ましてや野良猫。警戒心は強い。僕は猫を追いかけた。周りに人はいなかった。この時僕は優越感に浸っていた。人間を追いかければストーカーになるが、動物をどれだけ追いかけたところで罪に問われることはない。そのくせ少しだけ背徳感がある。どこまででも追いかけてやるぞと心に決めた。本屋の裏手の方に隠れた猫。僕はゆっくり、ゆっくり近づいた。そしたらじっと止まっていた猫は再びパッと飛び出して、川の橋を越えて隣の老人施設と思しき駐車場に逃げた。ああ、どこまでも逃げる猫め。僕には敵意も何にもないのに。遠くから猫は僕の様子を窺っている。警戒されてしまったなと思った。これ以上追いかけたところでどうにもならないし、不審者がいると通報されても困るから追跡を諦めた。
 昔、好きな子が居て何回もデートに誘ったけど駄目だった時の事を不意に思い出した。「しつこい男は嫌われる」。そんなことはわかりきっているのだけれど。猫にとってもあの子にとっても僕は気持ちの悪い存在だったのだろう。猫を追いかけていた時の興奮はもう冷め切っていた。そして僕は今何をしているんだろうと虚無感に襲われた。冷たい風が吹いていた。お腹がすいた。
 僕は車に乗ってコンビニで適当な弁当を買った。車の中で弁当を食べながら、猫を追いかけていた時のあの変態じみた感覚を思い出していた。いざとなればなんだってできる。今度見かけたら全力で走って尻尾を掴んでやる、と妙に意気込んだ。ニヤニヤしながら僕は車を運転し、家に帰った。(終)

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