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余命365か月/二〇二四年七月

 七月二十九日(月) 晴れ
 朝比奈さんが休みの日の朝が好きだ。朝比奈さんが働く日は、午前三時台に起きる彼女のアラームで目が覚める。朝比奈さんが出かける用意をしているあいだ、私は二度寝する。そして、時間になったら起き出して彼女を職場へ送る。朝比奈さんが休みなら、自分が起きなければならない五時十分の少し前、自然に目が覚める。そして、熟睡している朝比奈さんの顔をながめる。彼女は歯ぎしりをしたり、にやついたりしている。見つめると徐々にゲシュタルト崩壊を起こし、顔が可愛いとか可愛くないとか、さっぱり分からなくなる。やがて人間かどうかも不確かになり、軽くつむった眼とか弓型の眉毛、平均的な高さの鼻や、いかなるときも口角が下がらない口が、それぞれ個別の生き物のように蠢き出す。無理に愛そうとする必要はないんだな、と思う。そして、人生が愛しくなる。
 今朝もそんな朝だった。昨日激しくテニスをしたにしては、膝の調子もよかった。なおさら機嫌がよかった。身支度をして、出発十分前に朝比奈さんを起こした。私の上機嫌は朝比奈さんにも伝染して、彼女はしきりに「ラブだよ」と言いながら何度も抱きついてきた。おかげで遅刻寸前だった。職場まで朝比奈さんに送ってもらった。
 配達は午前で終わった。午後、作り置きする麺も大してなかったので、私は掃除係にさせてもらった。途中で社長が出勤したので、来年中に山梨を離れる予定だと伝えた。代わりの人が来たら即日解雇でかまわないから、それまでアルバイトでも何でも、会社の都合のいいように扱ってもらいたい、と言った。社長は嫌な顔一つ見せず、ただ残念そうに「もしも山梨にいるんなら、Kさんにいてもらいたいんですよね」と言ってくれた。さすがにグッと来たが、いなくなる可能性が非常に高いと正直に言った。社長は「わかりました」と頷いた。
 掃除に戻り、冷蔵庫と冷凍庫の外壁、入口前の三和土をピカピカにした。午後三時半に専務がニヤニヤしながら「Kさん、もう作る麺がないので終わりにしてもいいですか」と言った。私が朝比奈さんの迎えが来なければ帰れないと知っていて、揶揄い半分だった。専務は「なんなら私が送りましょうか」と笑って言ったが、それは丁重に断った。すぐ朝比奈さんに電話した。家から二十分かかるので、事務所で待たせてもらった。結局全員残っていて、たわいもない雑談に花を咲かせた。午後四時前、我が家の軽自動車が窓の外を横切った。「では、失礼致します」と言って私が一番先に上がった。
 職場近くの温泉に初めて行った。なかなかよかったが、露天風呂がないのが私と朝比奈さんには致命傷だった。風呂上がりはまっすぐ帰って、朝比奈さんが買ってくれていた餃子でパーティーを開いた。
 明日、朝比奈さんは仕事だ。彼女が仕事の朝も、別に嫌いなわけじゃない。夜更かしをせずにいつも朝比奈さんと同時に寝れば、私が先に目が覚めるはずで、それなら毎朝が今朝のようになる、とようやく気づいた。

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